Column(コラム)                                                 表紙へ戻る
2018.6.6 ブ ル ガ リ ア と の 出 会 い 西島冬彦
2018.2.15 ブルガリアのマルテニッツァ ステファノヴ・アレクサンダー
2018.1.1 「国際化」について想うこと 小泉崇
2017.2.20 ブ ル ガ リ ア の バ ラ 豊田昇
2017.1.1 ブ ル ガ リ ア の お 正 月 エヴァ・ニコロヴァ
2016.9.12 ブ ル ガ リ ア の 手 仕 事 佐藤千香子
2016.7.31 絵本みたいな国、ブルガリア 渡邉美佳
2016.1.1 約700年の伝統を持つ日本の芸能「能楽」とブルガリアの文化交流 松上和美
2014.11.30 ブルガリアが生んだ癒しのダンス、パネウリスミー サワダヨーコ
2014.6.11 「私のブルガリアデビュー」 井川 麻実
2013.11.1 日本語を学んで本当によかった マリア・マリノヴァ 
2013.9.27 はじめまして、ひらがなネットです。 戸嶋浩子 
2012.11.28 「私流?ブルガリア料理」 杉浦和子 
2012.7.11  「 型破りの国ブルガリア 」 ニコライ・パダレフ 
2012.5.28 「 出 会 い と 架 け 橋 」 服部美智枝 
2012.2.23 冬 の 桜 「福島民報」より転載  
2011.8.18 『ブルガリア』のこと、もっと知ってもらいたい! 岡村良太 
2011.7.18 『ふしぎなふえ』の絵を描いて 植垣歩子 
2011.6.7 ブルガリアを学ぶ

文京学院大学 文京学院短期大学 

2011.1.1  新年を迎えて 竹田恆治 
2010.9.17 親戚の田舎町 ダフィンカ・パルヴァノヴァ 
2010.8.23 バルカン山脈の男たち 加藤哲章 
2010.7.1 曰ブ交流史に大きな足跡を残した山澤将軍 神山健吉 
2010.5.20 「私とブルガリア」(一目ぼれから熱愛へ)その2 佐々木文徳 
2010.3.8 「ソフィア在勤の思い出」 松井啓 
2009.12.15 魅力増大のブルガリア 染谷日出輝 
2009.11.11 ソフィアにも日の丸の駅が F.M 
2009.10.11

『ブルガリア女性合唱入門』に入門してみました。

萩原ミカ 
2009.8.31 「私とブルガリア」(一目ぼれから熱愛へ)その1 佐々木文徳 
2009.8.1 再びブルガリアン・コスミック・ヴォイセズに出逢えた! 海藤晴子 
2009.7.1 ブルガリア文学『軛の下で』を読んで 加藤修子 

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ブ ル ガ リ ア と の 出 会 い
2018年6月6日 株式会社クレハ   西 島 冬 彦



料理教室でトニー君と

 私は父の仕事の関係で幼少は海外に住んでおりました。私自身はイタリアのアドリア海に面したトリエステというところに住んでおりましたが、ここは東西冷戦でチャーチルの鉄カーテン宣言で冷戦を象徴する港町でした。1960年代はまだ東西冷戦の時代で東欧は旧ソ連の支配下国家というイメージがありました。当時、トリエステは旧ユーゴスラビア(旧ユーゴ)とは領土問題を抱えていたため、国連管轄で街がイタリア側のZone Aと旧ユーゴ側の Zone Bに二分されていました。否が応にも東側の欧州というのは意識せざるを得ない状況でした。それでも旧ユーゴは東欧の中でも比較的オープンとされていましたが、それ以外の東欧諸国は統制の厳しいイメージがあり、ベールに包まれた国でした。当時の時代背景からそうならざるを得なかったと思いますが、ブルガリアのジフコフ政権は旧ユーゴスラビアよりも強権国家と聞いておりました。

私とブルガリアの最初の出会いは1970年に始まります。1970年はメキシコでワールドカップが開催されてペレ中心のブラジルが優勝しましたが、ブルガリアはボネフを中心に出場していたので記憶にありました。西ドイツと激しい点取り合戦(ブ3-西独5)を展開したので印象に残っていました。私がブルガリアという国名を意識した最初のきっかけでした。

次の出会いも同じく1970年の大阪万国博覧会で、ブルガリア館でブルガリアに触れたことでした。この時、英語でしたが初めてブルガリア人と話すことができました。何を話したか覚えていませんでしたが、イデオロギーを離れると彼らも普通の人々だと実感しました。そしてこれが強烈でしたが、初めてブルガリアのヨーグルトを食べたのが今でも記憶にありました。それが後に明治ブルガリアヨーグルトに繋がったと後日パタレフ氏のお話から伺いました。恐らく日本とブルガリアの繋がりのターニングポイントになったと思います。

その後はブルガリアを意識することはしばらくありませんでしたが、2014年に渋谷区で開催された杉原千畝展を拝見する機会がありました。余り日本の外務省から評価されていない杉原さんを知る目的で行きました。当時のブルガリア大使がお見えになり日本同様に枢軸国であったにも関わらずブルガリア市民がユダヤ人を密かに逃していた話を初めて知り大きな感動を覚えました。それを機会にブルガリア友好協会の様々なイベントに参加するようになり今日まで至っております。お蔭様でブルガリア大使公邸にも参加する機会に恵まれブルガリアを楽しんでおります。

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ブルガリアのマルテニッツァ
2018年2月15日

ブルガリア ソフィア大学   ステファノヴ・アレクサンダー


 ブルガリアでは、昔からの様々な習慣や伝統、儀式などが現在も続いている。その中には、「マルテニツァ」というものも含まれている。マルテニツァは、赤と白の羊毛などの毛糸で作られ、ミサンガと似たような伝統的な飾り付けである。三月一日になると、ブルガリア人は自分の家族や友達、先生や部長など男女や身分を問わず、マルテニツァを交換する。日本の節分のように、マルテニツァの交換は春の始まりを象徴する伝統である。また、毛糸のそれぞれの色にも特別な意味がある。赤は血と命を象徴し、白は純潔と幸福を象徴する。その二色を合わせたマルテニツァは、相手の健康や幸せを願い、相手の手首に結ばれる。手首に結ぶことが一般的だが、コサージュのように、胸に着ける種類や、家や職場の壁に付ける種類もある。また、貰ったマルテニツァの数が多ければ多いほど、願いの効果が強くなるとされている。一度着けたら、マルテニツァは花を咲かせた木、もしくは渡り鳥をその年初めて見るまで、ずっと外さない。すなわち、春が実際に始まったと示す証拠を見た時に、マルテニツァを外す。そして、すぐに木の枝に付ける。すると、その年は国の土地が肥えるのだと信じられている。

 マルテニツァの起源は、昔のトラキア人に関係するとされているが、ブルガリア人は別の伝説が起源だと信じている。その伝説では、681年にブルガリアと言う国を確立した王の妹が、彼に大事な手紙を発送した。妹は燕の足に白い毛糸で手紙を結んだが、燕が王の元へ飛んでいた途中で、激しい嵐に会った。そこで、燕が怪我をしたが、飛び続け、とうとう王の元へ着いた。しかし、毛糸の色は燕の血で白と赤になっていた。王がそれに気が付き、燕の犠牲に感謝するため、全員のブルガリア人に赤と白の毛糸を手首に結ばせた。そして、そのようにマルテニツァが生まれたそうである。

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「国際化」について想うこと
2018年1月1日

元駐ブルガリア日本大使   小 泉  崇


先日あるテレビ番組で、ブルガリアの新体操のチームが山形県の村山市で強化合宿をしている様子が紹介されていた。ご覧になった方もいらっしゃると思う。2020年の東京オリンピックでの初の金メダル獲得を目指しているブルガリア・チームの真剣な練習風景が印象的であった。一方村山市は、地域の活性化のためにこのブルガリア・チーム招致に積極的であったようある。私が一番興味深く思ったのは、この新体操のチームと地元の高校の新体操チームとの交流であった。勿論ブルガリアのチームは世界最高レベルにある。地元の高校生たちが世界の一流の技と気迫に触れられたことは、彼女らにとってかけがえのない財産となったことは間違いない。これは国際的な交流がもたらすインパクトの好例であると思うが、こうした経験はそう日常的にできるものではない。私はより一般的な意味で、日本人が日本国内で「国際化」していくことが様々な意味で重要であると考えている。

 視点は若干異なるが、私は現在日本における外国人に対する日本語教育に関心を持っている。「日本人の国際化」という時、主に日本人が英語なりの外国語を学び、海外に進出して活躍することが想定されていたように思う。しかしながら大多数の日本人は日本で生活し、特に英語などを話す必要もなく暮らしている。我が国では少子高齢化が進む中一方で、日本で学んだり、働いたりしている外国人の数は着実に増えている。その背景には、1983年に示された留学生10万人構想や1990年の入管法改正、EPAによる介護福祉士や看護師候補者受け入れなど様々な政策の影響もあろう。このような状況の下では、日本人は好むと好まざるとに関わらず、また、日本に居ながらにして、「国際化」しなければならないことになる。そのためにはこうした外国人と意思の疎通を図るために、共通の言語を持つ必要性が生じる。相手の外国人は様々な国から来ており、言葉も多様である。日本人の側がこれらの言葉に精通することには無理があり、外国人の側に日本語を習得してもらう必要があろう。日本で学び、働き、暮らす外国人が日本語で日本人と意思疎通ができることで、日本人の側がいわゆる「異文化コミュニケーション」を図ることができるようになる。日本に居ながらにして世界の異文化を知り、理解し、「国際化」していけると思うのだが、どうであろうか。

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ブ ル ガ リ ア の バ ラ
2017年2月20日

豊 田    昇


 世界一香りが高いと言われるブルガリアのバラ油(ローズオイル)は、1グラムいくらかご存知ですか?

 ソフィア ファミリーの皆様も、ブルガリア旅行のお土産として、小さな可愛い木彫りの筒などに入った「バラの香水」(約2ミリリットル入り)をたくさん購入されたのでは。

国際市場での取引価格は、1キログラム当たり65万円以上ともいわれています。しかし、ローズオイルの生産量は天候に大きく左右され、前年比半減あるいは倍増と乱高下しますので、価格はこの影響を大きく受けます。ちなみに、データが古くて恐縮ですが(10年前に定年退職したため)、2007年の生産量は、好天に加えてバラの作付け面積が政府支援により3,500ヘクタールにまで拡大したこともあり、前年比66%増の2.5トンでした。

生産されるローズオイルの約90%は香水の原材料として輸出され、主な輸出先はフランス、米国、ドイツ、日本などの大手化粧品メーカーです。社会主義時代は、外貨(米ドル)稼ぎのための重要な産業の一つでした。

消費者市場での小売価格は、前出の取引価格の約10倍、すなわち1グラム6,500円ぐらいになります。

 バラの生産地カザンラク(ソフィアから東へ約170km)の「バラの谷」では、毎年6月に「バラ祭り」が開催されます。バラの花びらの買付価格は、当時で1キロ当たり1.5レバ(約75ユーロ・セント)と格安でした。早朝に朝露の光る花びらを、低賃金で雇用したロマ人が一斉に収穫するからです。

 1キロのオイルを抽出・製造するのに約3トンの花びらが必要です。また、1グラムのオイルを作るには約1,500個のバラの花が必要といわれます。ローズオイルを抽出するためのバラは「ダマスク」という種類のばらで、観賞用のバラと異なり花びらが小粒です。


(伝統的な蒸留によるローズオイルの抽出 実演@バラの谷、中央手前の籠の中にバラの花びらがあります)

かつては、ローズオイル1グラム=金1グラムといわれた古き良き時代があったそうです。

そういえば、友人のストイツェヴィご夫妻の家で、バラの香りがする美味しいスープやケーキをご馳走になったことを思い出しました。料理の原材料にバラのエッセンスを数滴入れるそうです。ブルガリアでは、ローズオイルが家庭生活にも広く浸透している様子です。

 また、国民に最も愛好され、国花でもあるバラにちなんで、エドナー・ブルガルスカ・ローザ(一本のブルガリアのバラ)というタイトルの歌があります。私が初めて覚えたブルガリアの歌です。当時、ギターで弾き語りをする女子学生 ロシッツァ・キリロヴァが歌っていました。彼女の歌は見つからなかったのですが、他の歌手が歌っていましたので、次に記したURLで是非聴いてみて下さい。

https://youtu.be/f_66UZE352g

https://youtu.be/8nGnZ5t55Ss

さて、初めて「ブルガリア人民共和国」(当時)のソフィア国際空港に降り立ち、空港ビル内で飛び交う雀や鳩に驚いたのが1983年の夏でした。ジフコフ書記長が率いる共産党政権下の厳しい経済・社会状況の中で、日本とブルガリア間の貿易・投資を中心とした二国間経済協力の推進が任務でした。


(ジフコフ書記長(中央のグレースーツ)と筆者(黒スーツ) @プロヴディフ国際見本市会場)


その後、再び「ブルガリア共和国」を訪れたのは、社会主義の計画経済から民主主義の資本主義経済に移行しつつあった2004年の1月でした。シメオン首相が率いる政府は、経済の発展のためには日米欧の先進国からの投資誘致が急務と考えていました。そこで、日本からの投資誘致を指導するアドバイザーとして招聘され、ブルガリア経済省と投資庁に勤務しました。

 

既に退職後、数年が経ち、ようやく自由な時間が増えましたので、前述の計5年半の滞在経験を活かして、微力ながらブルガリアと日本の民間交流のお手伝いを通じて、交流の楽しさを分かち合うことができればと考えております。

ソフィア ファミリーの皆様、何卒よろしくお願い申し上げます。

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ブ ル ガ リ ア の お 正 月
2017年1月1日

エヴァ・ニコロヴァ


皆さん、ドバル・デン。カク・ステ?

こんにちは。お元気ですか。

私の名前はエヴァです。よろしくお願いします。2015年9月8日、留学生として日本に到着しました。飛行機2 機で、全部で16時間。かなり遠い所、長く憧れた夢の所に着いてきたのです。その日から2016年7月の下旬まで、ほぼ一年間日本に住んでいました。言語学だけではなく、日本の文化や習慣などについても詳しく学べましたが、そのおかげで自分の国の様々なことについても前より心の中で深い関心が芽生えてきました。

ある国の文化をきちんと描写するために触れなければならないものは一つあります。それは祝日です。個人的に、ブルガリアの祝日の中で特に好きで面白いと思うのはお正月なのです。今ちょうど12月で、ソフィアの中央はどこでもクリスマス・ツリーが見え、飾りなどがついており、お祝いの雰囲気がしています。そのインスピレーションを受けた私はこれから少しブルガリアのお正月の過ごし方、習慣などを紹介したいと思います。

今の習慣は昔と異なっていません。古くからお正月の文化といえば、一族のみんなが揃い、一緒に祝うという意味があります。それはアスパルッフ・カンがブルガリアを建国したときから存在している考え方です。昔のブルガリア社会は武人の国で、民族にとって最も大事なのはその一族と一族の間の団結でした。この文化が長く続いており、今もブルガリアでは家族といえば特別で親しさの強いイメージがあります。


お正月の食卓

そのため、祝日のとき、家族、親戚や友達と一緒にいるのは普通です。特にクリスマスやお正月の際はそうです。お正月への準備は朝から始まります。食卓は豊かで美しいです。伝統的なおかずは例えば豚肉と酸っぱいキャベツ、ステーキ、シチメンチョウのロースト、焼いた野菜とお米などです。デザートとしては、一番代表的なのはいわゆるバクラヴァーです。それはトルコから来たとても甘く、香りの強い食べ物です。フィロ、お砂糖と少量のオイルで作られています。欠かせないものなので、なくてはならないのは、たまねぎ、にんにく、小麦のデザート、乾燥果物、クルミなどです。飲み物はもちろんアルコールで、普通はワイン、シャンパン、ラキヤ(ブルガリアの伝統的な強いアルコール)などが可能です。


豚肉、酸っぱいキャベツ

シチメンチョウロースト

バクラヴァ
       
小麦デザート                             乾燥果物
       
ワイン                                 ラキヤ

伝統によれば、その全てのおかずは1月6日、「ヨルダノヴデン」(Yordanovden)というもう一つの大事な祝日まで、毎日少しずつ食べ続けなければならないそうです。

元日は特別な占いバニツァを食べる習慣です。中には小さなこれからの一年間へのいい占いや活躍の祈りのメッセージがあり、その分を食べると中に母親、あるいは祖母に隠してあるメッセージを見て喜んであげるのは普通です。バニツァから一つの分を置いておき、聖母マリアの聖像の前に置き、お供えにする習慣もあります。


バニツァ

続いて、家の子共は親戚の腰を優しくミズキの木の小枝で叩きます。それは健康、幸運や活躍のためのお祈りとして理解されています。それは全部家や家族への祝福のための習慣です。

それはブルガリアの伝統的なお正月です。

真夜中はもちろん「お正月おめでとう」とみんなが喜んでシャンパンを飲みます。

皆さん、ブルガリアからお正月おめでとうございます。

これからの一年が幸福な日々になりますように。

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ブ ル ガ リ ア の 手 仕 事
2016年9月12日

(開発コンサルタント/ テキスタイル作家)   佐藤 千香子

ブルガリアの中心に位置するガブロヴォ、その郊外に様々な職人の手仕事が今もなお受け継がれている「エタル野外民族博物館」の工房群がある。水の力でロクロを回しながらの木工、砥石を水流で動かす刃物の研ぎ場、大きな樽のような中の自然の水流で敷物を洗う洗濯機、糸車を回しながら糸を複雑に組んで羊毛のコード紐「ガイタン」をつくり出す組紐機等、伝統的な工房で仕事に励む職人達や同僚達と過ごしたこと[1]、それは今もなお私が抱き続けるブルガリアへの想いの源である。

ガブロヴォは職人の街であり今でも優れた工芸品を作る職人が多い。かつては、産業としてのものづくりも盛んで街は活気に溢れていた。鍛冶屋や木工職人達は切磋琢磨し技術を高め、金属や木材による道具や機械づくりも発展。すると、皮革、羊毛、山羊毛等を用いた様々な工芸品や製品づくりの道具や機材にも工夫が凝らされて生産性が上がっていった。私が興味深く感じたものの一つ、羊毛のコード紐「ガイタン」は、衣装の縁取りに用いられて装飾すると同時に強度を持たせる為の服飾用の素材である。当初は手作業で紐を組んでいたが、水力を活用しながら機械化し1 9世紀半ばには輸出を目的として増産することに成功。ガブロヴォの産業として大きな発展を遂げた。この組紐機は木工や鍛冶職人の精密で高度な技術により発達した。匠の技で作られた木製の水車と鍛冶職人が完成させた30以上もの鉄の部品を組み立てた精密な組紐機が、ガブロヴォ郊外のエタル地域の川沿いに40程の工房、そして700余りの組紐機が動き続けていた。博物館で活動中、同僚達から教えてもらったエピソードや残された文献で「ガイタン」作りの歩みを知り、少しずつ街に親しんでくるとガブロヴォの歴史にも触れ、創造力豊かにそれぞれの道を開拓してきたかつての先人達のことを想像した。そして、今でも職人達が脈々と仕事を続けていることに感動し、ガブロヴォで2年間を過ごすことが大変貴重なことだと感じずにはいられなかった。 

今日(こんにち)、人々が博物館を訪れれば自然と一体化した風情豊かな風景の中を歩き、かつて職人達で活気のあったガブロヴォの人々の暮らしを思い浮かべることができる。そして、私自身は今もなお続くエタルの職人達との心のふれ合いが創作活動の原動力になっていると実感する。「ガイタン」作りをはじめ、赤く染まった糸を用いるマルテニツァや復活祭での色とりどりの卵が登場する心温まる風習を紹介する年中行事、美しい色や自然素材が用いられている民族衣装等、それぞれまつわる様々な手仕事をテーマに、帰国後の私は染色を軸とした自らのテキスタイル作家としての活動と併せてブルガリアの文化について様々な展開を試みている。日本の人々の心にもきっと心に響く何かがあるはず、そういう想いを込めて遠く離れた日本で、アクションを起こす。小さな力がいつか何かになるのではないかと私は信じている。


[1] 2004年から2年間、「エタル野外民族博物館」にて染色技師としてJICAの派遣により活動

        









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絵本みたいな国、ブルガリア
2016年7月31日

渡邉 美佳


先日、初めてブルガリアへ行ってきました!

私は日本でピアニストとして活動しているので、ブルガリアへは観光とピアノのコンサートを開催するために向かいました♪

ブルガリアへ旅行したことのある人が周りにいなかったため、楽しみな反面少し不安もありましたが、、、

ブルガリアのヴァルナ空港に着くなり、「ジャパニーズ?オウ!こんにーちわ!さよーなら!」と、知っている日本語を笑顔で話してくれた職員さんをはじめ、温かい現地の人々と、素敵な国に、すぐに魅了されてしまいました!

観光ではまず町中を散策しましたが、至る所に遺跡があり、古い町並みやお城、そして神聖な教会や修道院が多く残っており、歴史好きの私にはとても刺激になりました。

現在のブルガリア共和国が出来るまでには様々な歴史的背景があったそうで、その片鱗が町を歩いていると多く発見でき、小さくも歴史の深いブルガリアという国に個人的にはとても興味をそそられました。

また、町を少し行くと町の近くとは思えない程の豊かな自然と、綺麗な海が広がっており、まるで絵本の世界に迷い込んでしまったようでした


現地の人いわく、夏にはブルガリアの美しいビーチを目当てに何万人ものに観光客が訪れ、毎日がビーチパーティーだそうです♪

それを聞いて、行く時期間違えたなーと後悔。。。次は必ず夏にリベンジしたいと思います!

お料理については私は好き嫌いが多いのですが、意外にも日本人に合うとても美味しい料理ばかりで驚きました!♪

ブルガリア=ヨーグルトのイメージしかありませんでしたが、、、笑

もっとブルガリア料理が日本に紹介される機会があればいいのになーと感じてしまう程でした!



そして一番のブルガリアでの目的であるコンサート。

見ず知らずの日本人のコンサートに、一体何人来てくれるのか、、、と直前まで不安でいっぱい。

コンサートを持ちかけ企画運営と通訳までしてくれた、ソフィアファミリーの一員でありブルガリア大使館のアントニオさんからは、「私達は日本のアニメを見て育ち、日本の文化や歴史も好き。親日家も多いが、日本人が中々ブルガリアへ来てくれない。日本人がコンサートを開いてくれたらみんな喜ぶよ!」

と言われていましたが、、、半信半疑でした。

少なくて当たり前!少人数でも日本の事を知ってもらえればいいやー、と軽い気持ちで臨みました。

ところが会場に出てびっくり。。。

会場に入りきれない程のお客様がいらしてくれていました(@_@)!!

コンサートではクラシックを数曲、日本の曲数曲、そして世界でも有名な宮崎駿のジブリの曲も数曲演奏しました。

まさか、会場のほぼ全員の方がジブリを観ていて、こんなにも喜んでもらえるとは夢にも思いませんでした!

コンサートは日本とブルガリアの違いや日本の文化、歴史等も話しつつ進めていきましたが、トーク中にも皆さま頷いたり笑ったりと反応してくださり、どれだけ日本に興味があるかという事が伝わってきました。

なにより、アンコールに「残酷な天使のテーゼ」を日本語でお客様と歌った時は、一番驚き、日本のアニメ文化への関心の強さが感じ取れました。

コンサート後は次々とお客様がいらしてくださり、着物を初めて見たと感動してくれた方、日本に行くのが夢だと熱弁してくれた方、日本人の和を大事にする心が素晴らしいと褒めてくれた方、皆様の日本への愛情に、私の方が感動してしまいました、、、

ブルガリア、大好きです!この温かくて素敵な国、中々行くには遠い国ではありますが、また必ずブルガリアへ行きたいと思います(><)

そして、多くの方にブルガリアの国の素晴らしさを伝えていきたいなーと思います♪


〜〜〜最後に〜〜〜

コンサート成功へ導いてくれた大恩あるアントニオさん、そして日本へ帰国した際にお世話になりました、ソフィアファミリーの皆様に心から感謝申し上げます。
素敵な経験をさせて頂き本当にありがとうございました。

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約700年の伝統を持つ日本の芸能「能楽」とブルガリアの文化交流

2016年1月1日

民族ダンスグループ:サンバルカン   松上 和美


新年あけましておめでとうございます。

本年も様々な出会いを通して世界の平和と友好に貢献できるような良き年になりますよう心よりお祈り申し上げます。

昨年ホームページからソフィアファミリー石井様に連絡をさせていただいたことがきっかけとなり、ブルガリア民族ダンスにすっかりはまっている 主婦の松上和美と申します。現在は埼玉県坂戸市に住んでいます。

現在は、埼玉県川越市でサンバルカンの一員として イベントやボランティア活動で ブルガリア民族ダンスを紹介させていただいています。ご覧になられた方々は珍しいリズムの音楽でありながらどこか懐かしいような美しい旋律、素晴らしい衣装、素晴らしいダンス?(となるように、努力中です。ご了承くださいませ。)に大変喜んでいただき、やりがいを感じています。

さて、今回のコラムでは大阪で出会ったブルガリア人留学生ぺトコさんについてお伝えしたいと思います。

3年程前だったと思います。私は当時、大阪府豊中市に住んでいました。大阪城の近くにある山本能楽堂へ謡(うたい)のお稽古に行った時のことです。背の高い若い外国人男性が紋付袴姿で能舞台のお稽古の準備をされているのを拝見しました。美しい姿、美しい所作にひときわ感銘を受けました。のちにその方は、ブルガリア人留学生ぺトコ・スラボスさんと紹介されました。当時は直接お話をする機会がなかったのですが、大阪では数々の新聞記事に紹介されましたのでそれらの新聞記事から抜粋させていただきぺテコさんの紹介をしたいと思います。

産経ニュースのページへ

当時、正月の1月には謡初会(うたいぞめかい)と言う発表会が山本能楽堂でありました。その際にぺテコさんからお抹茶を頂き、丁寧にご挨拶してくださり、あまりに流暢な日本語と所作の美しさに大変印象深く心に残っています。

現在ぺテコさんはブルガリアに戻っているとのことですが、その後も観世流シテ方の山本章弘先生は何度もブルガリア公演を成功されブルガリアでの活動を熱心に続けていらっしゃいます。

そのような活動が評価され20157月に行われた2015日本ストックホルム青少年水大賞にて未来開拓賞を受賞されました。

たまたま私がその際関東に住まいしていたこともあり、当日の授賞式には同席させていただきブルガリアでの活動の一端を知ることになりました。

授賞式での受賞活動集よりブルガリアに関する部分を一部抜粋して紹介します。

【未来開拓賞】第17回日本水大賞 水の大切さを次世代に伝える新作能「水の輪」-子供たちと作る能

社団法人 山本能楽堂

■日本を代表する古典芸能である能楽に外国人が参加し「水を大切にする気持ち」文化を通して共有

水の浄化をテーマに環境問題を考える新作能「水の輪」には、汚れてしまった川の水をきれいに甦らすために子供たちが大勢水鳥役になって登場する。2010年には、子供たちに代わって外国人が能について学び「水を大切にする気持ち」を共有し、その気持ちを母国語(英、仏、韓、中、加)で表現し出演した。2011,2012年にはブルガリア共和国での講演で、約30名の日本語を学ぶブルガリア人の子ども達が「大阪ことば」で出演し、文化により日本との深い絆を構築した。(省略)ブルガリアでは、ブルガリアの子ども達が日本の伝統的な絞り染めの技法で現地の文化を取り入れながら衣装を作り出演した。(以下 略)

 

日本人でもなかなか接する機会の少ない能楽を通してブルガリアの方々と絆が結ばれていること素敵だなと思います。

山本能楽堂へは大阪城のほど近く地下鉄谷町四丁目下車徒歩5分ほどです。是非関西にお越しの際には立ち寄りください。予約が必要な場合が多いので、私、松上までご連絡いただければお取次ぎいたします。どうぞよろしくお願い申し上げます。

最後に、つたない文章でしたが最後までお読みくださり誠にありがとうございました。

本年も皆様にとって素晴らしい年になりますようご祈念申し上げます。

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ブルガリアが生んだ癒しのダンス、パネウリスミー
2015年11月30日

パネウリスミー・ジャパン 主宰 サワダヨーコ


パネウリスミー(Paneurhythmy)1932年よりブルガリアで行われるようになったダンスエクササイズです。夏の時期、特に8月中旬にブルガリアに在したことがある方なら、リラ山の上で人が大きな輪を作って踊っている子を、現地のニュース映像でごになっているかも知れません。それがまさに、今回ご紹介させていただくパネウリスミーです。

「ブルガリア史上最も影響力のある100人」のひとりとげられるペタル・ダノフという人物が、史上の混の中、人の心身の健康のために音とダンスを考案し、パネウリスミーとしてまとめました。共産主義の元で秘密裏にけられてきたこのエクササイズは、ブルガリア移民などを通じて少しずつ世界にがり、現在ヨーロッパは元より、ロシア、北米、中南米、オーストラリア、アフリカ諸などでも踊られています。


ではその容はと言うと、日本人にとっては、盆踊りを想像していただくのがイメージに近いでしょうか。踊り手たちで大きな輪を作り、音に合わせて行きつりつしながら、優雅に踊ります。難しい動きではありませんが、ブルガリア音楽独特のリズムやハーモニーを含み、非常に味わい深い容になっています。


ただし盆踊りと異なり、パネウリスミーは自然の中で、特に太陽の下で踊るのが基本になっています。なぜならこのダンスの動きや音には、太陽、空、大地、風、動植物など身の回りの自然に感謝し、大きな宇宙の一員として生きるという意味を含んでいるからです。ブルガリアでは主に春から秋にかけて、朝の早い時間に踊るのがよいとされています。


私がこのエクササイズに出ったのは2011年、東日本大震災の直後のことでした。仕事先で偶然知り合った東系の女性が、パネウリスミーというブルガリアの輪踊りが大好きで日踊っていると言うので、持ちで日曜の朝、東京のオアシス・新宿御苑に彼女を訪ねました。


あの311の直後は誰しもそうだったと思うのですが、震災復興のために自分が何ができるかを私はんでいました。非力な自分が一どうしたら今の日本に役立つだろうか、と。


そんな中、太陽に照らさせてく茂った芝生の上で、風に吹かれ、たくさんの木まれてパネウリスミーを踊ってみると、音に合わせて鳥たちがさえずり、草木が私たちと一れている。急に自分と地球とのがりのようなものを感じ、人間は自然の一部なのだと改めて感したのです。それまで自然や地球をさほど意識せずに過ごしてきた私には、ずっと昔に忘れてしまっていた感でした。


もし、普段から意識的に地球ともっと交流をしていたら、本人間の持つ野生の勘がぎ澄まされるかもしれない。そうすればこの先また自然の脅威と峙したとしても、するべき事にづけるかもしれない。そういった思いから、私はパネウリスミーを踊りけています。東系の女性はその後日本を離れましたが、代わりに私が一から勉し直し、現在は日本のみならずアジアでの第一人者として、世界中の方に助けていただきながら活動しています。とはいえ日本での輪もまだまだ小さいですので、もっと頑張らなくてはいけません。


最後に、これは私個人の考えですがパネウリスミーがブルガリアで生まれたのは、素朴で豊かな原風景があるからこそだと感じます。また様々な苦境の中でも屈せず、誇りを保ちけるブルガリア人は、民族のアイデンティティの象として、またある時は心のり所、癒しとしてパネウリスミーを大切にしているようにみえます。私が際リトリートなどでうブルガリア人たちは皆それぞれに誇りを忘れず、自分たちは肉的にも精神的にもいと主張します。彼らがいのは地球のどこにいてもブルガリアの美しい自然のみを思い、宇宙からのパワーを感じているからかもしれません。そして日本に住む私たちも彼らのようにパネウリスミーを踊り、日本の自然のすばらしさを再認識して、活力を改めて感じてみてはいかがでしょうか。

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「私のブルガリアデビュー」
2014年6月11日

井川 麻実


 私とブルガリアの出会いは12年10月、仕事でブルガリアの担当になったことがきっかけでした。それまでヨーロッパ旅行すらしたことのない私にとって、ブルガリアと言えばまずヨーグルトと琴欧洲を思い浮かべる程度で、国の正確な位置すらよく分かっていないという有様でした。それから日々の業務や出張等を通じて、ブルガリアへの理解を深めていきました。

まだ私のブルガリア歴は1年半と短く、ブルガリアを訪れたことは1回しかありません。しかも仕事として行ったので、もちろんじっくりと観光をする時間はありませんでした。出張は、ソフィアに数日滞在しただけでしたが、天候に恵まれ(仕事の移動の合間に見た、青々とした空とアレクサンドル・ネフスキー大聖堂のコントラストは言葉にならない美しさでした!)、温かいブルガリア人の皆様にお会いし、おいしい食事を頂いて非常に充実したものになりました。

あと数年(あるいは数ヶ月)すれば異動があるので、いずれ私はブルガリアの担当ではなくなってしまいます。しかしながら、ブルガリア担当でなくなったとしても、一人のブルガリアファンとして、ソフィアファミリー様を始めブルガリア関係の皆様とのご縁を大事にしていきたいと思っています。

私の目標は、仕事ではなく、プライベートでたっぷりと時間を取ってブルガリアに行くことです。ブルガリア通の皆様、お勧めのスポットをご教示いただければ幸いです。

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日本語を学んで本当によかった
2013年11月1日

ソフィア市第18総合学校  マリア・マリノヴァ



歓迎会で感謝の言葉を

今年の四月に弁論大会に出場させて頂きました。色々練習してきたので「頑張ろう」と思いました。でもまさか来日できるとは思いませんでした。とても嬉しかったです。(※下記ソフィアファミリー付記参照)

来日は10月7日から17日まででした。とても楽しみにしていたのでドキドキしていました。

実は感動したのは到着する前でした。

機内で窓から見ると ... 雲海に囲まれた富士山が見えていました。あまりに美しくて涙が出るぐらい感動しました。

10日間はとても楽しめましたがあっという間に経ちました。日本の学校に通えてホームステイをさせて頂いたり、旅行したり、色々な活動に参加したりしました。そしていつも周りの人の優しさに囲まれていました。学校で先生方や生徒達がとても優しくしてくれて嬉しかったです。日本の学校もとても好きになりました。それぞれのクラスの生徒達がすごく仲良くしていることに気がついて学校の皆は手伝いあったり支えあったりしている気がしました。


歓迎会に出席した人とお話


ブルガリアフェアにも参加させてもらって沢山の来て下さった方に感謝しました。ブルガリアに興味をもって頂いてすごく嬉しかったです。その日にスピーチさせていただくのが緊張していましたがとてもあたたかい雰囲気でした。なのでよくできたと思います。

それから京都と神戸へ旅行に連れて行ってもらいました。その時に私の一つの夢が叶ったんです。京都と神戸をとても訪れたかったですから。そして東京の観光もさせて頂きました。

実は今年の夏に日本に留学させて頂きました。その時も、10月の来日中も笑顔ばかりの日々を過ごせました。そして日本語を勉強しはじめた頃から日本のことをとても大切に思っています。私にとって日本は歴史の深い国。伝統を守る国。綺麗な自然の国。素敵な現代的な街と感動させる古いまちの国。食べ物の美味しい国。そして人が親切で優しい国。日本語を学んで本当によかったと心から思っております。また日本を訪れるように頑張りたいと思っています。

日本と海外の関係を強くするために色々して下さる方々、文化交流を支えて下さる方々そして仲良くして優しくして下さる方々、本当にありがとうございました。

ソフィアファミリー付記:マリアさんは、2013年4月13日にブルガリア科学アカデミー講堂で開催された、在ブルガリア日本大使館とキリル・メトディ国際基金の共催による第19回日本語弁論大会中級の部に出場し優勝したソフィア市第18総合学校の11年生。その優勝者が日本ブルガリア協会に招待されての来日となったものです。
歓迎会でも、17歳とは思えない落ち着いた語り口で、弁論大会のテーマ「言葉より大切なこと」について、語ってくれました。

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はじめまして、ひらがなネットです。
2013年9月27日

ひらがなネット株式会社 代表取締役 戸嶋浩子



みんなで散歩「納涼の夕べ」(左端が筆者)

 2012年に「ひらがなネット株式会社」を設立し、外国人と日本をつなぐ事業を行っています。仕事のパートナーである吉澤は、「ブルガリアの人と自然と文化を愛する会」のメンバーであり、「バルカン通信」の発行に長年携わって来ました。私自身は、ブルガリア大使館で行われたマルティニッツアづくりや、八重洲のブルガリア料理店「ソフィア」の美味しい食事やワインを通じて、ブルガリアを身近に感じています。

 日本に暮らすブルガリア人は、総務省の統計(2012.12月)によると、393人。そのうち155人が東京に暮らしているそうです。ちなみに日本在住の外国人は全国で約204万人、東京都には約39万人という数字です。私たちは、事業とは別に墨田区の「日本語サークル こんにちは!」で、外国人に日本語を教えるボランティア活動を長く続けています。実は、そういった教室でさえ、ブルガリアの方には一度もお会いしたことがありませんでした。

 ブルガリア大使館では、マルティニッツアづくりのほか、楽しい話や音楽、ブルガリア料理の試食など、とても楽しい時間を過ごしました。こうした機会があることで、普段身近に接することがないブルガリアの方々に、とても親しみをもちました。いつかブルガリアの方に教室でお会いしたら、大使館で教わった「ドバルデン!」を使って、元気よく挨拶してみたいと思います。


モンゴルの子供たち

 さて、「サンバーノ!」という挨拶はご存知でしょうか。これは、モンゴルの言葉で「こんにちは」です。この夏、モンゴルとは特別な出会いがありました。ひらがなネットの「生活教室」で学ぶモンゴル人生徒さんの呼びかけで、モンゴルを旅したのです。田舎の村では、100人の方と一緒にピーマンの肉詰めやみそ汁をつくり、150人の子どもと折り紙や風船、フェイスペイントなどをして遊びました。ウランバートルでは、日本センターでおにぎりをつくったり、日本の食文化や遊びを伝えました。また、人々で賑わう公園を早朝から掃除し、ゴミ問題について考える機会も得ました。海外での活動は今回が初めてでしたが、すばらしい体験をいくつもしました。ブルガリアにもいつか訪問し、両国の友好のための交流を実現したいと思います。

 私たちの会社がある墨田区には、9千人を超す外国人が暮らしています。26人にひとりが外国人で、その9割以上がアジアの方々です。新宿区では約10人にひとり、港区では約11人にひとりが外国人です。みなさんが住んでいらっしゃる地域はいかがでしょうか。外国人は多いですか? ご近所の方はどちらの国の出身ですか? 

 私たち「ひらがなネット」は、日本で暮らす外国人がもっと暮らしやすくなるようにお手伝いをしたいと考え、事業をはじめました。


モンゴルでの料理教室

 1.日本人と外国人が仲良くなれば、お互いもっと暮らしやすくなる!
 2.日本で暮らす外国人の国籍は様々。母国語も様々。だったら、日本語で話そう。
 3.やさしい日本語で、情報を伝えよう。
 4.買物、電話、病院…。生活スキルがあがれば、もっと楽しく、ラクになるのでは?

 そんなことを考えています。

 事業のひとつ「みんなで散歩」は、日本人と外国人が一緒に町歩きをする企画です。月に2〜3回、東京を中心に行っています。歩きながらだとたくさんの会話が生まれ、とても楽しいですよ。また、「生活教室」では、料理のほか、買物や電話のかけ方、美容院の行き方など、日常の問題を解決して生活力を上げるための授業を行っています。

ひらがなネットしんぶん をご覧ください。

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「私流?ブルガリア料理」
2012年11月28日 ヨーグルトサン商事(有)  杉浦和子

 
ご縁があって「第二の故郷」となったブルガリアですが、本場のブルガリア料理を食べるのは1年に1度あるかないか・・・。日本のブルガリアレストランで堪能すればよいのですが、急に食べたくなることは皆様おありではないでしょうか? そんな時は一番簡単なキュフテ(ブルガリア風ハンバーグ)を作ります。我が家では普段あまりオイリーな物は食べないので、キュフテにも私流にアレンジして調理しています。

材料のパン粉を「おから」にしたり塩麹を加えてみたり、焼く場合も「魚を焼くグリル」で油を落としながら焼きます。 少しさっぱりしたキュフテになりますが、通常の肉料理はあまり召し上がれない方にも、こちらなら沢山食べて頂けます。ブルガリア料理にはハーブはかかせません。私はブルガリアに行った際、必ずスーパーでスパイスを色々購入してきます。「チュブリツァ」は日本で入手不可ですが、代用品は「オレガノ」が良いかと思います。お使いの際は必ず手で擦るように細かくしてから入れると、香りが一層引き立ちます。主人はこちらの具をパンに乗せてオーブンでトーストしたものがお気に入りのようです。ブルガリアの「 」風と言ったところでしょうか?

付け合わせは、野菜のグリル焼にヨーグルト・ニンニク・ディル・オリーブオイルを入れたソースで頂きます。

多少、日本とブルガリアのコラボになっているかな?・・・と私流?のご紹介でございます。 お試し頂ければ幸いです。

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「 型破りの国ブルガリア 」
2012年7月11日 (株)明治 海外ユニット  ニコライ・パダレフ

Part1:ブルガリア人の起源、世界文明への貢献

ブルガリアの民は地球に存在する国民のなかで、最もルーツが古い民族の一つであります。最近の歴史学研究の結果によると、その起源は古代アシール・バビロンの高度な文化の交差点に位置するヒマラヤ山脈の東の麓にあります。そして幾たびの移住と建国、他民族との交流を繰り返し、現在の国家を築き上げ、今の地位に至っております。その沿革はヨーグルトの誕生と密接な関わりを持っていることは偶然ではないと思われます。

より詳しい歴史的な事実、因果関係は読者のご自分の関心、インターネット時代における探し方の工夫にお任せしますが、ブルガリア民族がかかわって形成された文明空間や国家などを誕生の順番で羅列しますと、以下の通りになります:

パミール山脈の古代ブルガリア:

正確な誕生日はわからないが、紀元前の数千年前。現在残っている暦の中で、太陽暦に基づくブルガリア人発明の暦がUNESCOによって最も時間を計る誠実なツールとして認められていることは、古代ブルガリア人が高度な天文学的な知識を備え、古来黎明の灯る人類文明の起点までに差し上るまで時間を測り、歴史の流れを左右していた最大の証拠である。

●現在のウクライナの主な領域に存在したクブラットの古代ブルガリア。紀元後の民族大移住に伴い、以下の国家に枝分かれした:

①   ドナウブルガリア:紀元前3世紀から現在にいたる。世界最古の黄金財宝を残したバルカンの民、トラキア人、スラブ人との混血により形成された現在ヨーロッパで残っている最古の国家であり。875年にキリル文字を発明し、東方正教文明の東欧における普及、社会制度の開花に多大なる寄与した国家

②   ヴォルガブルガリア:紀元後5世紀から14世紀までの1千年の間、欧州とアジアをつなぐ絹の道の北道路を支配し、繁盛した大国。13~14世紀までモンゴル人の欧州侵略を二回にわたり阻止し、戦勝を収めたが、チンギッス・ハンの孫が15万人軍勢で押し寄せた14世紀末に滅びた。

③   パノニアブルガル人:現在のチェコ、ハンガリーの領域に移住した一派

④   アルツェッコが率いるブルガリア人の一派:北イタリアに渡り、中世イタリアの発展に多岐にわたる影響を与え(イタリア貴族の半分ぐらいはブルガリア人の指導者によって創立された)。装飾ブランドの最高峰のひとつであるBulgari社はその例の一つである。

⑤   それ以外には、ドイツやトルコへの移住も確認されている。

 

Part2:ブルガリア紹介写真

ブルガリア人の魔よけダンス”Kukeri”(ちなみにチベット語でBolgh/ブルガリア人の語源は「神様に近い人間であるという意味を持つ」

         

Vladimir Dimitrov Maistorの傑作       ロドッパ山脈の民族歌い合戦

          

Etaraブルガリアの古民家             Borovets  リゾート

      

Part3:ブルガリアと日本の繋がり

一説によれば、おそらく弥生時代の頃だと思われるが、民族の大移動の時代にブルガリア人の一派が日本列島に渡り、現在の九州か関西地区に移住したそうである。

両国間の交流の始まり

近代に入ると、日本は帝国主義の台頭と植民地政策の一環として、バルカン半島に位置するブルガリアを視察するようになり、その活動の中心はブルガリアで日本の大使館が創建されるまで、ウィーン大使館によって担われ、19世紀末にそこで数年勤めた日本で国際法の概念を導入した忍順平の著作「東欧の夢」の中では、ブルガリア独立の運動(バルカン半島の中心であるMisiya、Trakiya、Makedonia、ブルガリア人が過半数を占めている三つの地域の統一)とバルカン戦争などがつぶさに描写されている。

第2次大戦以後

後は第二次世界戦争の渦巻のなかで、ブルガリアと日本は枢軸同盟国となったが、終戦後の冷戦勃発とともに異なる道を歩むようになった。それにもかかわらず、戦後から1990年代までに社会主義経済圏の中で頭脳集団として名高いブルガリアはIT産業、機材・重機などの生産、化学や食品、医薬、宇宙開発などの分野で指導的な役割を果たすようになり、イデオロギーの対立にもかかわらず、日本大手の商社をはじめとするリーディング企業はブルガリアで事務所を構えたり、活発な経済・人材文化交流があった。

ベルリンの壁崩壊に伴う変化と今日までの軌跡

その後のベルリン壁崩壊に伴い、幾分経済関係や貿易額は縮小したが、EU経済危機の真っ只中にマクロ経済の基礎がしっかりし、地政学的にも経済的にEUと中東、CIS諸国・中央アジアの重要な交差点に位置するブルガリアはそれらに地域への進出拠点として日本の企業にとって魅力的な国であることに何の変わりはない。

なお、高速道路などのインフラ整備やサービス産業の更なる発展により、ブルガリアを訪れる年間約1万人である日本からの旅行者がさらに増えるチャンスがあります。

また、最近日本でにわかにブームになっているのは、世界最古の一つであるワインの輸入増加(前年比で凡そ三倍増である)。日本のFujita Kankouが開催したワインコンクールでブルガリアのメーカーブランド“Enira”が優秀したり、口コミでの評判が良くて、とりわけ在来種のMavrudやいくつかのワイン種類をブレンドした創作ブランドがお勧めである。コストパフォーマンスと味のハーモニーで初心者からソムリエの専門家まで驚かせる新発見になることに間違いない。

明治ブルガリアのヨーグルトやブルガリア産のバラ油を使った化粧品や食品などは日本で有名ではありますが、これからもブルガリアワインやレストランSofiaで提供されているブルガリア料理の人気が上昇し、謎の国ブルガリア、知らざる欧州のプロテスタント運動と産業革命の種をまいたブルガリアに対する日本人の関心が高まるきっかけになればいいなと祈願している。

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「 出 会 い と 架 け 橋 」
2012年6月1日 ホストファミリー 服部美智枝


 2004年の秋、人とのご縁により一人の留学生と出会った。日本に来て間もない20歳の青年は「第二次世界大戦から復興し目覚ましい発展を遂げている日本で学び、母国と日本との架け橋になりたい」と目を輝かせ希望を熱く語った。学びのため遠く故郷離れ、慣れない日本での生活、異文化の中「郷に入れば郷に従え」で頑張る留学生。日本語のきめ細かな表現は難しいが彼は自分の思いを駆使し言葉にする努力をした。誠実でひたむきな人柄に惹かれ「何かお手伝いできるなら・・・」と思いホストファミリーを引き受けることになった。


大学の休暇を利用して、彼を家に招いた。大晦日には近所の神社で除夜の太鼓と神楽、そして元旦には初日の出ハイキングやおせち料理で「日本のお正月」を体験。更に、枝豆刈り、祭りなど農村の暮らしや四季折々の行事に参加して地域の人との交流も深め、また日本の武道である居合いの稽古にも勤しんだ。一方、多くの日本人にとって「ヨーグルトと大関・琴欧洲」しか知らない私たちの前で「ブルガリアへのバーチャル旅行」と称した交流会を催し、ローズオイル、アイリャン、ホロを踊るなど五感を活用した母国の紹介を積極的に行った。

 人と出会い様々な体験を通して彼は着実に「日本」を学び理解を深めていった。「ブルガリアでは、日本語の学習そのものが目的でした日本に来て目的から手段になりました。その手段を使い、日本の皆さまに少しでもブルガリアを知っていただけたら大変嬉しく思います。そして、皆さまの税金で留学生活が送れています。感謝申し上げます。」と流暢な日本語で挨拶するまでに成長した。彼こそ、大阪大学大学院卒業後ブルガリア外務省に入省し、みごと夢かなって20109月に駐日大使館員として東京に赴任したペタル・ニコラエフ氏である。

 同年、彼から「ブルガリア子ども絵画展」を兵庫県で開催をしたいとの依頼があった。小さな会場で出発した絵画展も回を重ねるうちに新聞で取り上げられ大関・琴欧洲来訪もあり兵庫EU協会創立20周年記念事業は好評を博した。ドナウ川や黒海を色鮮やかに描いた作品はとても感動的で心を動かされるものがあった。兵庫県51町で開催の実行委員長を引き受ける上で不安もあったが、多くの方々の協力を頂いて20112月無事終えることができた時は想いを手渡しながら人から人へ繋がる「ご縁」という見えない糸でつながっていることを強く感じた。

 更に、東京で開催された「にっぽんー大使たちの視線」が今年2月に神戸でも開催された。日本に駐在される50名の外交官が出品した写真の中に、毎年水無月に我が家に集い体験する「多可町での田植え」の様子を彼が一枚の写真に収め、評価された事は実に嬉しいことであった。そして月末には、彼を神戸に迎えて講演とブルガリア料理と日本料理を作る異文化交流イベントを行い盛会となったことは、日本とブルガリアの交流の輪が広がっていく実感となった。

一つの出会いが、いくつもの輪となり、人と人、国と国、それぞれの架け橋になったことに大きな喜びを感じている。まだ見ぬブルガリアの地を一度訪れたいと思っている。

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「新春随筆」冬 の 桜
2012年2月23日 福島民報2012.1.1号より転載


八百板洋子

 冷たい風が吹く夜、帰宅すると、郵便受けに一通の便りが入っていた。

 「この冬、ふしぎなことが起きました。あなたがソフィアの病院の庭に贈ってくれた桜の木が、蕾をつけたのです」

 二十代にブルガリアのソフィア大学の寄宿舎で一緒に暮していた友人からの手紙だった。

 これからブルガリアは冷え込み、ソフィアは何もかも凍りつくような日々が訪れる。それが三つ、四つ、桜の蕾が真冬にむかって咲こうとしているというのだ。

 私が留学していた頃、ソフィアの自由公園に一本の桜の若木が植えられていた。そして、春になると青味を帯びた花を咲かせた。染井吉野らしいがまだ厳しい冷気の中では、そういう色に見えた。

 当時、東欧の社会主義の国に留学する人など数えるほどしかなく、いつも一人だった私は、春も夏も、秋も冬も、幾度となくその桜の木のそばに通って行ったものだった。

 帰国後も、ブルガリアを訪れるたびにその桜の木の下に立ち、大きく育った元気な姿にほっとしていたが、ここ数年、行けないでいた。

 そんなある年、自由公園の桜が枯れた。

 しばらくして福島の実家の桜の大木も枯れてしまった。幼い頃、細い若木だったものが、私の成長と共に育ち、見上げるような大木になっていた老樹だった。

 この二つのことは、なにか、自分の一つの時期が終わったような気持ちにさせられる出来事だった。

 父と母、恩師との別れもあり、ふさいでいた折、ヨーロッパで一番大きな規模というソフィア中央病院が建設された。私はゆかりのある仲間たちと一緒に、八重桜と染井吉野の若木を病院に贈った。

 昨年の春、八重桜は薄紅色の、ぽってりした花をつけ、病院の職員や患者さんたちが花見をしたと聞いた。

 そして今、染井吉野の一枝が、冷たい風に耐えて小さな蕾をつけたというのだ。

 私は、ブルガリアを中心にバルカンの国々の詩や民話を研究してきた。

 バルカンとはトルコ語で「山」を意味し、その名のように、ルーマニア、ブルガリア、旧ユーゴスラヴィアの国々は、実に山が多い。

 これらの国の人たちは、けして戦争好きの民族でないのだが、ヨーロッパとオリエントをつなぐ地理的条件から、たえず戦火の舞台となり、異民族の支配に脅かされてきた。

 こんな言葉が残っている。

「バルカンの山は見ていた。この地で起きた喜びも悲しみも、山はずっと見ていた」

 異民族による支配を受け続け、その痛みに耐えてきた国々には、小さな暮らしを大切にする心温まる話や、人生に立ち向かおうとする、生命力に溢れた話がたくさんある。

 バルカンの民話は、時を超え、歴史や民族の壁を超え、今なお私たちに深く語りかけてくる力があると私は思う。人間にとって「いちばんないせつなもの」とは何だろうと。

 福島の山も、この美しい緑いっぱいの地で起きたことを見ていた。いや、見ていただけではない。今、私たちと共に耐え、闘っている。

 私は、ふと、凛と立つ冬の木に祈りたくなる。

 冬の桜は、木の芯が熱く燃えているという。激しい生命力を宿しているのだ。

 今年の福島の桜は、どの花も、ありったけの力で美しく咲くことだろう。

 雪深いソフィアで、冬でも蕾をつけた若い桜の木が、限りない励ましのエールを送っているように思えてならない。

八百板洋子(エッセイスト・翻訳家、福島県文学賞審査委員、福島県出身)

ソフィアファミリー付記:2011年3月11日に発生した東日本大震災から間もなく1年となりますが、福島県出身の八百板洋子さんが、福島民報の依頼によりエッセイを寄稿されていることを知り、転載いたしました。
なお、文中にある「ソフィア中央病院に桜の若木を贈った“ゆかりのある仲間たち”」とは、私たちソフィアファミリーです。

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『ブルガリア』のこと、もっと知ってもらいたい!
~本物のヨーグルト食文化啓蒙活動を通じて~
 
 2011年8月18日

㈱明治 関東支社 広域市乳営業統括部    岡村 良太


私は一度もブルガリアに行ったことはありませんが、ヨーグルトの本場でもあるブルガリアの食文化には並々ならぬ興味を抱いています。今は営業の仕事をしていることもあり、当社の代名詞でもあるブルガリアヨーグルトを通じて、ブルガリアの食文化はもちろんのこと、まだまだ日本人には馴染みの薄い『ブルガリア』という国の魅力を一人でも多くの日本人に伝えていきたいと考えています。

 私が明治乳業(現㈱明治)に入社したのは1997年のことです。根っからの食いしん坊である私は、就職活動が始まる前から仕事をするなら食品メーカーと心に決めていたのですが、今になって振り返ってみると、この会社に入社できたことに何か運命的なものを感じずにはいられません。最終面接で私が人事部長(現在の社長)に伝えたのは、ブルガリアヨーグルトに関する話でした。当時、脳の病気で大きな手術をした私の母が、術後間もなくまだ食欲もあまりない時期に、「フルーツヨーグルトだったら食べられるかも」と言うので、私は様々なメーカーのフルーツヨーグルトを持って病院に見舞いに行きました。母が残さず最後まで食べるのは、いつも決まって「明治ブルガリア」のフルーツヨーグルトだったのです。「病人を元気にするパワーを持った商品を売る仕事がしたい」、人事部長に伝えたその一言が効いたのかどうかは分かりませんが、私は最終面接を無事に突破することができました。

 入社後は、大手スーパーにブルガリアヨーグルトをはじめとする各種乳製品を販売する仕事に携わっていましたが、第一の転機が訪れたのは2003年のことです。「dancyu(ダンチュウ)」という男性向けの『食』をテーマにした雑誌に、ヨーグルトの特集記事が掲載されました。『プレーンヨーグルト+塩、ニンニク』『ヨーグルトは主食』など、バルカン半島のヨーグルト食文化に関するその内容は、ヨーグルトは甘くして食べるものという日本国内での常識にとらわれていた私には衝撃的なものでした。以来私の中で、「本物のヨーグルト食文化を日本人に知ってもらいたい」という思いが芽生えました。その後スーパーのバイヤーに粘り強く商談を行い、店頭でブルガリアヨーグルトを用いた甘くない ヨーグルト料理の試食販売企画を実施したこともありましたが、当時の結果は賛否両論でした。
 第二の転機は、ブルガリア人社員のパダレフ氏と出会った2010年です。彼の全面的な協力を得て、当時私が担当していたコンビニチェーンにおいて、「ブルガリア食文化体験キャンペーン」という企画を実施しました。これは、当社商品を含む買い物をしたお客様を対象に、抽選で八重洲にあるブルガリア料理レストラン「SOFIA(ソフィア)」の食事券や、ブルガリア特産のバラのジャム等をプレゼントするというもので、過去に例のない企画です。ブルガリアの「本物」にとことんこだわった景品の選定、及び仕入れの交渉は、全て私が行いました。また、この企画に使える経費は限られていたため、店頭告知ポスターの梱包発送等、通常であれば専門業者さんに委託することも全て自分で行いました。
 社内外の様々な困難を乗り越えて実現したこの企画は、コンビニチェーンの担当者様、お客様にも大変好評で、私にとっても生涯忘れられない仕事の一つとなりました。

 今はまた別のコンビニチェーンに対し、前述の企画を更に進化させたものを提案しているところですが、自分の目でゆっくりとブルガリアを見てみたいという思いは日に日に強まっています。携帯とパソコンさえあればいつでもどこでも仕事ができてしまう世の中、まとまった時間を確保するのはなかなか難しいですが、近い将来必ず実現し、『ブルガリア』という国の魅力を一人でも多くの日本人に伝えるという夢を、現実のものにしたいと考えています。


「ブルガリア食文化体験キャンペーン」ポスター

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 『ふしぎなふえ』の絵を描いて
2011年7月18日 絵本作家  植垣歩子

 ブルガリアの昔話「ふしぎなふえ」の原稿を読んですぐに、私は、この上なく楽しい気持ちになっていました。「ピーロラッラー」という笛の音と一緒に、人もヤギも牛も豚も手をつなぎ、輪になって楽しく踊っている絵が、頭の中にあふれ出してきたのです。

 後日、ブルガリア大使館で行われたパーティーに参加させていただき、訳者の八百板洋子さんに初めてお会いしました。民族衣装を観察したり、珍しいごちそうをいただきながら、八百板さんからブリガリア料理の説明を受けたり、ブルガリアの方々にご挨拶したりして、初めてのブルガリア体験を満喫しました。民族衣装の華やかさ、そして何よりもブルガリアの方々の優しい目、その魅力に触れ、『ふしぎなふえ』の絵を描ける喜びが大きく膨らんでいったのでした。

 その後も、ブルガリア合唱団のコンサートを、八百板さんと編集者の方と私の3人で見に行きました。美しい民族衣装姿をスケッチしながら、神秘的な歌声を楽しみました。

 ブルガリアの民族衣装は、地域によっても、また、既婚、未婚などによっても異なってくるため、八百板さんにご相談しながら、どんな衣装を描くか決めていきました。もちろん衣装だけでなく、八百板さんはさまざまな資料を用意してくださいました。

 こうして、絵を描くにあたっての予備知識や資料収集、心の準備が整っていきました。

 でも、ひとつだけ、不安が残っていました。「笛」です。物語で一番重要な役割の「笛」を実際に見ていないのです。私は、どうしてもその笛(カヴァルといいます)を自分の眼で見て、手で触って、質感を確かめたかったのです。そうすれば、迷いなく自信を持って、『ふしぎなふえ』の絵を描くことができると思いました。どこかで購入できないかと調べてみましたが、なかなかありません。編集者の方に相談してみると、八百板さんに聞いてみます、とのお返事。後日、八百板さんがお知り合いの音楽家の方に「カヴァル」を借りてくださるとのことで、私の不安は吹き飛び、まさに天にも昇る気持ちでした。

 「カヴァル」は、写真で見るよりも大きく感じ、穴の位置も少し複雑で、実際に見る事ができて本当によかったと思いました。お借りした大切なものなので、あまりいじって壊したら大変と思い、すぐに粘土で模型を作ってみました。そして、自分で吹く真似をしながら、羊飼いの男の子の気持ちになって、部屋の中を歩き回ったりもしました。こうして、「ブルガリア」に全身を包まれて、楽しく制作に打ち込みました。

 『ふしぎなふえ』は、たくさんの方たちの協力があって描けた絵です。ブルガリアの素朴で美しい風景、おおらかで優しい人々…私の感じた「ブルガリア」を心を込めて描きました。絵が描き終わるころ、私は「ブルガリア」が大好きになっていました。何だかずっと前から知っていたような、溶け込んだような不思議な気持ち。でも、ふと、“私はまだブルガリアに行ったことないんだわ”と気付き、驚きました。

 今、私が一番に行ってみたい国は、もちろん、ブルガリアです。

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ブルガリアを学ぶ
2011年6月7日 文京学院大学 文京学院短期大学

 本学は、東京文京区に本郷キャンパス・埼玉県ふじみ野市にふじみ野キャンパスを擁し、4学部11学科で約5,000人が学んでおります。

 本学開学以来、学生を中心に捉えた教育を行ってきた本学は、「教育力日本一」という”てっぺん ”を目指すことの象徴として、創立100周年までの15年間に及ぶ長期プログラム「新・文明の旅」プログラムを、20114月より開講いたしました。

 「新・文明の旅」プログラムは、3年に一度学生をユーラシアの国々へ派遣し、各国の大学生と交流させるプログラムです。毎回3週間程度で訪れる国は3~4カ国。第1回派遣は20123月で、トルコ・ブルガリア・ルーマニアを訪問予定です。ブルガリアではソフィア大学とヴェリコ・タルノヴォ大学の学生との交流を予定しております。派遣学生は10名程度。派遣学生の旅費(渡航費・現地移動費・宿泊費)は大学が負担します。

 このプログラムに先立ち、201010月、本郷キャンパスにおいて、駐日ブルガリア共和国大使館特命全権大使リュボミル・トドロフ閣下による「ブルガリアの歴史・文化と現代社会」~日本との交流~をテーマに記念講演を開催いたしました。当日は、約200名の来場者が会場を埋め尽くし、ブルガリアの歴史や現代社会を初めて知った学生は、ブルガリアという国に魅入られていました。

 また、このプログラムでは、訪問国のさまざまな事柄を研究・理解し、そして訪問した際にどんな学習行動をとるかを立案・計画し、オリジナリティ溢れるフィールドワークプランを設計し、実行していきます。今年度用意されている講義は前期・後期で計30回。各国出身の講師陣を招いての全学共通科目で、全学部全学科より選抜された55名の学生が履修しております。

 いよいよ614日・21日・28日はブルガリア授業が行われます。第1回目は「ブルガリアに出会う」、第2回目は「ブルガリアの歴史の中の日本ブルガリア関係史、ブルガリアにおける日本のイメージ~東日本大震災(含む原発)をブルガリア国・人はどうみているか」、第3回目は「ブルガリアを語ろう」というテーマで学びます。講師には毎回マルコバ・カテリナさんをお迎えし、また第3回目にはブルガリアからの留学生にも参加していただき、本学学生とのディスカッションを行っていきます。

 今、学生はSNSツールを駆使して、各国の学生等と交流を図りつつあります。これから、本学学生がブルガリアの人々とどのように交流を図っていくか、ご期待下さい。

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新年を迎えて
2011年1月1日 前駐ブルガリア日本大使 竹田恆治


新年あけましておめでとう御座います。皆様お揃いで輝かしい新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。

昨年の10月に3年に亘る在ブルガリア大使としての任務を終え帰国しました。在任期間中はブルガリアのEU加盟、政権交代、外交関係再開50周年,ODA卒業等の節目の時期に当たりましたが、このような歴史的転換期に立ち会えた事を感慨深く感じています。

外交関係再開50周年に際して、パルヴァノフ大統領ご夫妻と秋篠宮同妃両殿下の相互訪問はじめ多くの記念行事が実現しましたが、これらの周年行事を通じ今後100周年に向かって友好・親善の基盤が更に強化された事を大変喜ばしく思っています。倉持代表はじめソフィアファミリーの皆様にもソフィアに於ける桜苗木植樹祭などの場を通じて周年行事を盛り立てて戴き誠に有難う御座いました。

私の在任期間中の優先課題は、『ポストODAの新しい二国間の枠組みの構築』でした。ブルガリアは世界でも有数の親日国ですが、そこに至るまでにODAは非常に大きな役割を果たしてきました。然し乍らが2007年のブルガリアのEU加盟に伴い同国がODAからの卒業を余儀なくされ2国間関係に大きな変化が生まれています。両国間関係は従来の『供与国―被供与国』から『戦略的互恵関係』へと変わろうとしており、どの様な新しい枠組みを構築するかが両国にとって重要な課題となっています。

ODAの果たしてきた役割があまりにも大きいので、それに匹敵する外交ツールを見つける事は難しく、今後は産官学、それに民間、地方を加えた『ALL JAPAN』で対応していく事が肝要になってきます。経済、外交分野での関係強化に努力することは言うまでもありませんが、今後は民間交流、地域連携、草の根の交流の果す役割が益々大きくなってくると思います。

昨年20周年を迎えた『日本文化月間』が引き続き文化交流の中心になりますがその運営は従来の日本政府中心の体制からブルガリア側をも巻き込んだ官民協調体制へと変わってきています。スポーツ分野では両国のオリンピック委員会の間で『パートナー-シップ協定』が締結されコーチ、選手又スポーツ医学等の交流が盛んに行われる様になってきています。学術関係では両国の大学間で30以上の『学術交流協定』が締結され各分野での学術交流が進展しています。日本語教育では過去3年間に日本語受講者が3倍の1000人へと大幅に増え日本への関心の高さを物語っています。

地方連携では近年ソフィア市と横浜市保土ヶ谷区が、又薔薇で有名なカザンラク市と福岡県の宗像市が『パートナーシップ協定』を締結し高校生のホームステイ、文化・スポーツ交流を通じ友好親善を図っています。ギリシャとの国境近くに位置するズドラグラッド市と福岡市早良区の間で来春『パートナーシップ協定』を締結すべく話し合いが進められています

以上申し上げました通り幅広い分野での新しい交流が各分野で生まれつつあり大変喜ばしい限りですが、ソフィアファミリーの様なNGOの活動が今後何より大切だと思っています。ソフィアファミリー並びにメンバーの皆様の益々のご発展とご活躍をお祈りいたします。

竹田恆治

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 親戚の田舎町
2010年9月17日 元一橋大学院生  ダフィンカ・パルヴァノヴァ


私の親戚の家はブルガリアの西北にあります。

バルカン山脈を越えて、モンタナという町の近くです。あまり大きくない町で、行くためには首都ソフィアからバスで2時間ぐらいかかります。

町では、ソフィアと違って団地の建物やマンションがまったくなくて、一軒家がほとんどです。

町はバルカン山脈のふもとにあり、山が囲んでいるので、それはきれいだと思います。

周りの山では夏にはブルーベリやラスベリーが自由に取れます。

山の一部までアスファルト道があり、車でそこまで行って、その後歩いて山登りをすると、ブルーベリがあります。

残念ながら、今年は山を登っていません。冬には、山にも町にもかなりの雪が積もり、寒いです。

秋には回りの森で胡桃が取れるので、子供の時に一回胡桃探しに行ったことがあります。

 

確かに、その地域では自然がとてもきれいだと思うけれど、あまりにも仕事がないので、若い人たちはソフィアに仕事を探しに移動し、年配の人だけが残って、人口が減って来ました。

それは、親戚のこの町だけではなくて周りの村でも同じ状況です。

そして、現在のブルガリアの田舎についてはこの状況は代表的になったと思います。

 

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バルカン山脈の男たち
2010年8月23日 ホテルアイビス総支配人 加藤哲章


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年前の夏、ブルガリアひとり旅の途中、バルカン山脈のふもと
ドルノ・イズヴォロボ村の村長の家に泊まった。

7月のブルガリアは暑い。朝6時目ざめる。エアコンはない、ナチュラルライフ。 
にわとりの声がひびきわたる。
このにわとり、何か言いたいことがあるのか、自己主張が強い。
そこまで叫ばなくてもいいぞ。
そしてすずめの声。
いい朝だ。子どものころの夏休みを思い出す。
あのころは、今日のことしか考えていなかった。
それが今では、明日のことばかり考えている。 

朝食後、ひとりで散歩。
田舎道で突然、すいかを売ろうと佇む婆様に出くわす。
むしょうにすいか割りがしたくなった。

村長が、今日はバルカン山脈のボスに会いに行こうという。
そんな人がいるのか。
山は寒いから、と村長の奥さんが上着を貸してくれた。
無事に帰って来られるといいが、と思った。

村の役場へ村長と出勤。秘書がいれてくれたコーヒーを飲んでいると、
ボスの手下がふたり、車で迎えに来た。
ごつい車だ。山道はてごわそうだ。
村長と乗りこむ。
パンときゅうり、とまとにワイン、そしてラキアを2リットル積み込んでいる。
平日だというのにピクニックか。 
私はつぶやいた。「村長、村は大丈夫か!」

村から山へ山道をのぼる。曲がりくねってどんどん行く。
まっ青な空と緑のトンネル。山に深く深く入りこむ。
魂のふるさとへすいこまれていくようだ。
なつかしさと怖れ。息をとめ皮膚呼吸に切りかえてみた。

途中、車がとまった。
写真を撮るのにいい場所だという。確かにすばらしい。
すると突然、村長が手を後ろに組み、笑顔でじっと動かなくなった。
・・・やっとわかった。自分の写真を撮れと言っていたのだった。
言葉をかわさなくても通じる心と心。すばらしい。

さらに車は山へ入っていく。
山の中に 突然ぽつんとひとつの家があった。
ひとりの男が家から出てきた。
バルカン山脈のボスだった。
まだ40代とみた。端正な顔つきをしていた。

家の中で杯を重ねる。
暖炉で手下たちが鶏を焼く。
ブルガリア語しか話さない人たち。
名前を呼びあい、杯を重ねるだけのときがすぎていった。
この日バルカン山脈のボスと私は、兄弟の契りをかわした(気がした)

けだるい午後の帰り道。
空はますます青く、あたりは緑一色。
この日私もバルカン山脈の男となった。
強い陽ざしの中で私は、ああまたここにもどって来なければ、と感じていた。

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曰ブ交流史に大きな足跡を残した山澤将軍
2010年7月 ブルガリアの人と自然と文化を愛する会会長 神山健吉


 日本とブルガリアとの交流は、二国間の距離がすこぶる離れているため、公的なレベルはもちろんのこと、民間レベルでの交流もそれほど古いとは言えない。しかし、1877年に始まった露土戦争の際に500年間のオスマントルコの支配から脱しようと立ち上がったブルガリア義勇軍はロシア軍とともにトルコ軍と対峙した。

 その戦闘に際して、薩摩藩出身の山澤静吾陸軍少佐は留学中のフランスから急濾、観戦武官として戦場に赴き、大砲の弾丸が雨霰と降り注ぐ中、各地の戦場を駆け巡った。そのうちトルコ軍の勢いが圧倒的に強くなり、ロシア軍兵士の気力が沮喪してしまいそうになった時、自ら志願して一つの隊の隊長となって力の限り戦った。そして、激戦の末、遂にトルコ軍側の砦を陥落させて大勝、その勇猛さはロシア、トルコ両軍の間に轟き渡ったという。戦争が終わった後、山澤少佐はロシア皇帝から名誉の勲章を授与された。

激戦の露土戦争
 
当時の激戦地プレーヴェンに建つ戦争絵展示館パノラマミュージアム

 1880年に帰国後、歩兵中佐、ついで大佐に昇進。1885年には少将に進み、歩兵第四旅団長、歩兵第十旅団長に転任した。1894年、日清戦争が起こるや、初めは留守第五師団長として広島にとどまったが、翌95年には中将に昇進して第四師団長として師団を率い、長期にわたって中国の遼東半島の戦場で力戦、戦争終了後、帰国するや戦場での功績によって男爵の爵位を授けられた。

 その後しばらくして肺結核に罹り、懸命な治療にもかかわらず1897年3月には危篤状態になった。そのことが明治天皇のお耳に達すると、3月29日、特に位を進めて従三位を授けるという知らせがあった。将軍は病の床でこれを聞き、感涙にむせんだという。翌30曰午前10時、眠るかのような大往生を遂げた。

 私は10年前頃からブルガリアの独立に寄与した山澤将軍の遺影をなんとか手に入れたい、また遺骨の埋葬場所を知りたいと懸命な捜査活動を続けていたところ、今から6年前に墓地が都内の青山墓地内にあることを突き止めた。その後、将軍の孫にあたる義郎さんの奥さんの久代さんが京都におられることも探りだし、遺影がどこかに残っているかお訊ねしたところ、義郎さんの長兄・静一(一九七六年に死去)さんが満洲事変後に南満洲鉄道に勤務された関係で、戦後引き揚げる途中でアルバムを始め、将軍に関わる貴重な品々をすべて紛失してしまって今は何も残っていないと伺い、大変残念に思った。

 将軍の三人のお子さんはすべて他界されているが、静一さんの五人のお子さんのうち、まだ何人さんかはご存命の可能性もあるように思える。

 将軍の墓地には今から5年前に前駐日大使センドフ博士と当時参事官(現公使)のステファノヴァさんをご案内したことがある。その年の12月にブルガリアのラストエンペラー、シメオン首相が来日された際、首相が将軍の墓地に参詣することも検討されたようだったが、隣国トルコをあまり刺激しないようにとの政治的配慮とセキュリティの両面で見送られてしまったのは誠に惜しまれる。

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「私とブルガリア」(一目ぼれから熱愛へその2
2010年5月20 佐々木 文徳


期待と不安を胸に初めての地ブルガリアへ

私の初めてのブルガリア訪問は、ブルガリアの教育制度の研修と学校訪問という目的で先生方に同行するというものでした。もちろん私自身初めての訪問ですので、なんとかブルガリアの情報をと書店を回ってみましたが、ブルガリアを紹介するガイドブックは見つかりませんでした。当時のブルガリアは「ソ連の忠実な娘」と言われ、ジフコフ国家元首を頂点とする共産党政権が支配する国でした。当然入国にはビザが必要でした。このめんどくさいビザの取得が第一歩です。また、今のようにブルガリア国内を自由に旅行することはできません。宿泊や食事や移動、訪問などの手配はすべて国営の「バルカン・ツーリスト」が行い、そのプログラム通りに行動しなくてはなりませんでした。すべての準備が整い、私たちは第一の訪問都市であるフランクフルトに向けて出発しました。そしてフランクフルトでの訪問を無事済ませ、いよいよブルガリアへ出発です。フランクフルトの空港からすでに不安と少々の期待が高まり緊張状態でした。無事ルフトハンザ航空機は離陸。およそ2時間飛行を続けた後、「間もなくソフィアに到着します」との機内放送がありました。いよいよ待ち望んでいたブルガリアとの出会いです。機はどんどん高度を下げてゆきます。

降り立った空港は、ペンペン草がお出迎え

ソフィアらしい街並みと大きな緑の地帯が窓から見えます。そしてとうとうソフィア国際空港に着陸です。しかし窓から私の眼に見えたのは、ペンペン草が生え、コンクリートがはがれた滑走路と小さなターミナルビルです。「本当にここはソフィアなのだろうか?これが一国の首都の国際空港なのだろうか?」と急に不安になりました。(私はもっと大きな空港を想像していました。)これが私とブルガリアとの最初の出会いです。何かいっぺんで緊張がとけてしまいました。無事に入国検査も終わり到着ロービーに出ると、中年のバルカン・ツーリストのガイドが私たちを歓迎してくれました。当時は残念ながら日本語ガイド、通訳はいなかったようで、流暢な英語を話すガイドでした。この優秀なガイドのおかげで私たちは素晴らしいブルガリアの滞在を楽しむ事ができました。

人の優しさと自然・文化に恋してしまった私

訪問する学校の先生方は親切で、子どもたちの目は輝いていました。食事は想像していた以上に美味しいし、観光で訪れたリラの僧院では一同感嘆の声をあげました。そして何よりも物価の安さに驚かされました。更に夕食の時に観た民族舞踊と音楽は私の心の中に深く突き刺さり大きな感動を受けました。これが生のブルガリアンボイスとの初めての遭遇でした。たった3日間の滞在でしたが、私はいっぺんでこの国に恋してしまいました。日本人が忘れてしまった人々の優しさ、自然の美しさなど私をホッとさせてくれる心地よい場所です。しかし、世界の情勢は刻一刻と変革に向けて進んでいました。1989年この美しい国もソ連崩壊という大きな歴史的な変革の流れの中に巻き込まれて行きます。次回は1989年以降の私と新しいブルガリアとの再会と現在までについてお話いたします。

(続く)

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「ソフィア在勤の思い出」
2010年3月8日 元駐ブルガリア日本国大使  松井 啓


 19989月から200110月までの3年間の勤務でした。政府も国民も非常に親日的で大変楽しく仕事をすることができました。10年ひと昔と言いますが、当時はベルリンの壁が崩れ、米ソを二極とする冷戦構造が崩壊して一気に世界情勢が流動化していました。ブルガリアを含めてかつてのソ連圏に属していた国々はこぞってNATOとEUへの加盟希望を表明した時代でした。隣国ユーゴスラビア(私の息子はその首都ベオグラード生まれ)では民族対立の悲惨な戦争が起こり、戦闘機からの流れミサイルがソフィア郊外のバンキヤ別荘地に落ちたこともありました。そんななか共産政権中スペインに亡命していた(国王)シメオン二世が55年ぶりに帰郷し、特に老年層の国民から熱狂的な歓迎を受けました。その逆に、ソ連との友好関係の維持に努め長い間トップの座にいたジフコフ書記長が安置されていた廟(民族博物館の前の公園にあった)は取り壊されました。

在任2年目に両国の外交関係再開40周年を記念してソフィア市中心の観光名所であるネフスキー寺院に向かって右の公園に東京都などの協力を得て桜の苗木を贈りました。前道脇に記念の白い大理石碑を建てましたので、機会がありましたらご覧ください。当時の文化大臣やソフィア市長、日本人会の人々との記念写真を添付します。ブルガリアは共産主義時代から日本の伝統文化(お茶、お花、盆栽、俳句)や武道(柔道、剣道、合気道等、現在は相撲も)に強い関心を持っています。日本も共産主義国では初めての円借款をホテル建設に供与しました。当時ヴィトシャ・オータニ・ホテルと呼ばれ(現在のケンピンスキー・ホテル)、年寄りのタクシー運転手ならまだヤポンスキー(日本)・ホテルと言っても通じます。私の在任中に浄水場建設、ブルガス港改修、地下鉄工事などに経済援助を供与することを決めましたがこれらが着実に実現しているのは嬉しいことです。

ブルガリアの、特に地方を旅行しますと、たまらない郷愁のようなものを覚えることがあります。これは私だけではないようです。歌や音楽は心の琴線に触れるようなものがあり、日本人は遠い昔にブルガリアを通って来たのではないかとの幻想に駆られることがあります。

一つだけ心残りなものがあります。ソ連時代にユネスコの協力も得て作られた「平和の鐘」公園には、日本からも梵鐘が贈られました。そのレプリカが在京大使公邸のお庭にあります。大きさは他の国に比べて決して引けを取らないものです。この公園は新時代になっての財政難で寂れてしまっています。せめて無くなってしまった撞木(鐘突き棒)を復元できないかなというのが私の願いです。

ブルガリア友好ソフィア・ファミリーがブルガリアの日本への紹介のために地道な草の根交流を継続してこられたことに敬意を表します。政府レベルの色々な交流プログラムと並んでこのような民間レベルの自発的な交流が相互理解の促進に漢方薬のように着実に効いてくるのではないかと期待しています。 (了)

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魅力増大のブルガリア
2009年11月15日 ブルガリア ローズ ジャパン株式会社 代表取締役  染谷日出輝


私とブルガリアの出会いは衝撃的なものでした。それは、イチゴジャムです。

当時イチゴが丸ごと入っているブルガリアのジャム、しかも安いとは。衝撃を受けた記憶があります。

その後、縁あってブルガリアとの合弁会社日武バルイーストに入社したのが本当の始まりでした。ジャムなどの農産物だと思っていた所、鉄鋼の輸出等工業資材の貿易で失望したものでした。ブルガリアが何処にあるかも知らず、何故鋼材を国会(“黒海”のことを勘違いして)へ持っていくのか上司に聞いて呆れられたものです。

こうして頭脳よりも身体で何事も覚えて今日に至っています。

現在でもブルガリアはまだまだ知られていませんが、当時と比較すると雲泥の差があります。この間にブルガリアと日本の関係を私の知る限りの事項を列挙しますと、NHK故前田会長の奥様、恒文社の「軛の下で」、明治ブルガリアヨーグルト、ホテル「ヴィトシャニューオータニ」、タバコ葉の輸入、ハイライトの現地生産、ワインの原料輸入、サントリーゴールドの現地生産、日本よりベアリング・コンデンサープラント、ソフィア三越、ブルガリアローズの輸入、徳洲会病院、琴欧洲、最近ではソフィア地下鉄、ブルガス港の改修、ソフィア空港の建設等々随分と多方面にわたりあるものです。

こうしてみますと何十年にもわたり途切れることなく続いてます。日本側が技術・製品を供給したのみならず、ブルガリア側より学んだことも数多くあります。冒頭のイチゴジャムを始めとして、ヨーグルトも以前は甘く熱のある時に食べるものと言う常識を引っくり返し甘くなく毎日食べるものとしてしまい食卓革命が起こってしまったのです。また、ワインでも一時期は国産ワインとして販売されていたものの7割がブルガリアワインとのブレンドであった時代もあります。現在でも、ブルガリアのローズオイル・ウォーターは知名度が上がり我々を癒し続けています。

こうした関係を継続できているもう一つの要因に、日本ブルガリア協会・ソフィアファミリーを始めボランティア友好団体が絶え間なく日本各地で古くからブルガリアを宣伝していることです。ゴマ擦る訳でなく、これら団体の絶え間ない努力と貢献には頭が下がります。また、ブルガリアのフォークダンスを人生かけて紹介したり、映画を紹介したりと様々な分野で活動が行われています。色々な国々にファンはいます。しかし、ブルガリアほど継続的に様々なイベント含め活動を行っている団体を持っている国は少ないと思います。

最近では本の出版も種類も増えてきています。

以前外務官僚が「何故ブルガリアへの援助・協力などが多いのか」との質問に対し、官僚から「何故かはわからないが思わず応援したくなる何かを持っている」と返事にならない返事が返ってきたと聞いています。

世界で230カ国以上ある中で人口・国土で100位前後のブルガリア

底流には、日本人全体にある自然志向の流れと思いますが、地理的に離れた国にも関わらず、上記の様な幅広い交流が最近更に発展しつつある事を頼もしく思っています。

音楽もオペラ・クラシック・民俗音楽だけでなくジャズ等を含めたもの、芸術も絵画・工藝・彫刻等々幅広い分野での紹介・交流が盛んとなっているようです。

今後は更に世代を超え深い交流が益々盛んとなり、我々の視野を広げてくれる事を祈念しております。

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ソフィアにも日の丸の駅が
2009年11月11日 F.M
トラム
バス
ジュリオキューリ駅
きれいな列車


はじめまして。ソフィアに
2年ちょっと住んでいる者です。実は年末には帰国することが決定し、悲しみにくれている今日この頃です。

ブルガリアに来てとてもうれしかったのが、比較的安全だということでした。もちろん油断大敵でスリなどには十分気をつけなければなりませんが、公共交通機関もフルに利用できます。最近はソフィアの街に地下鉄が開通(前から走っていましたが路線が伸びました)したこともあり、ブルガリアの交通に関して書きたいと思います。

私は普段、健康のためにもなるべく歩くようにしていますが、時間などの関係でバスやトラムも頻繁に利用します。現在運賃はバスもトラムも地下鉄も1回券が1Lv(70)、回数券(10枚綴)が7.5Lv(約520円)となっています。今年になってから電子カードのようなものも出現し、写真付きの定期券を持っている人も見かけます。が、全てのバスにそのカード読取り機が付いているわけではないのがブルガリアらしい(?)ところで、私自身は地下鉄以外はいまだに紙の券を利用しています。

最近開通した地下鉄の7駅から9駅は日本の円借款事業で建設されました。日本大使館近くのジュリオキューリ駅は日の丸を意識してデザインされたそうです。昔の写真が飾られていたりもして見ごたえもあります。今まで1時間近くかかっていた場所に10分ちょっとで到着できたりと、新しい地下鉄の恩恵にあずかっています。が、あまりにもスピードが速く感じられ、「大丈夫かな?」と不安に思う部分も少しあります。ソフィアの地下鉄は2080年までに3線が完成する予定だそうです。気が遠くなりそうな計画ですが、ソフィア市民の足として渋滞緩和に役立つ地下鉄が一刻も早く完成するといいなと思います。

まだブルガリアに来てすぐの頃ですが、長距離鉄道も利用しました。外国人には不親切なソフィア中央駅であちこちたらいまわしされながら列車の予約をしました。行きはかなり新しい車輌で時間もほぼ正確な発車でしたが、帰りは蒸気機関車のような古い車輌で、かなり遅れて来たことを覚えています。

最近、キュステンディルというソフィアの南西にある街へ列車で行きました。片道3時間5.5Lv(約380円)ととても安く、とてもきれいな列車でした。2両編成と短いのですが、トイレも付いていて驚きました。もちろん昔ながらの古~い列車も駅には停まっていて、興味をひかれました。

ブルガリアの交通事情はまだまだ発展途上の感がありますが、そのために起こるハプニングは笑い飛ばしながら自分の胸に良い思い出として刻んでいきたいと思います。

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『ブルガリア女性合唱入門』に入門してみました。

2009年10月11日 萩原ミカ


 今春、偶然ブルガリア合唱の紹介をしているHPを見つけました。

高校の3年間女子高で合唱部に所属していたこともあり、その紹介文を読んでいるうちに「これ、やってみたい!」という気持ちになり…ですがブルガリア合唱を学べる場所は記載されておらず、そこからHPを探し回ってようやく辿り着いたのがこの“SOFIA FAMILY”さんでした。そこですぐにメールで学べる場所はないか質問。ようやく『池袋コミュニティ・カレッジ』で講座が開かれている事を知り、すぐに入会の手続きを取りました。

初回のレッスンではブルガリアに関する歴史や芸術について、そしてブルガリア合唱の歌唱法についても簡単に勉強します。それからVTRCDで本場のブルガリア合唱を聴かせてもらいます。

そして軽くストレッチをし、発声練習。この時にいわゆる「普通の」合唱や声楽とは違う発声方法を少しずつ教わります。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、地声と言っても喉を使うのではなく腹筋を使って声を出すという点は普通の声楽などと同じです。が、地声である程度の高さまで音階を出すことは、声楽等の経験の無い方のほうが容易かもしれません。経験者はどうしてもある程度高い音階になると裏声を使ってしまう癖がついているからです。

発声練習が終わったら練習曲の楽譜をもらい、見本になる曲を聴いて…いよいよ歌い始めるといった流れになります。

3ヶ月のレッスンで2曲をマスターするというペースで進んでいきますが、短い曲ですし、同じところを何回も繰り返し講師の先生が一緒に歌ってくれますので、本当に初心者の人でも1時間半のレッスン終了時にはブルガリア合唱を十分に堪能出来るはずです。

講師の先生が芸能山城組で活動されているということもあり、イベント情報なども入手することが出来ます。8月に開催された“ケチャ祭り”でブルガリア女声合唱のライブもあったのですが、こちらの講座の生徒さんでも出演されている方がいらっしゃいました。

私自身が仕事の都合で全5回参加出来なかったのですが、落ち着いたらまた受講するつもりです。

残念ながら女性しか受講できませんが(笑)ご興味があれば是非一緒に歌う楽しみを味わっていただきたいと思います。

MIKA  

(写真は、イメージです。)

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「私とブルガリア」(一目ぼれから熱愛へ)その

2009年8月31日 日本ブルガリア協会事務局長   佐々木 文徳


ブルガリアを知っていますか?

数年前の在ブルガリア日本大使館主催による「日本文化月間」行事にご参加いただいた書家の方がソフィア大学の日本語学科の教室で書かれた文字「勃牙利」。これがブルガリアの漢字表記であることをその時始めて知りました。恐らくこの漢字をみて「ああ、ブルガリアか」と理解できる方はほとんどいないのではないでしょうか。何故こんなことを書くのかというと、やはり私たち日本人にとってはブルガリアとは今でも馴染みの薄い、遥か遠いドナウの果ての国ではないかと思うからです。確かに様々な集まりや旅行説明会に招かれてブルガリアのお話をさせていただく機会があるたびに、私がまずは「ブルガリアってどこにあるか正確に知っている方は手を挙げてください」と聞くと元気よく挙手してくれる方はせいぜい1、2名でゼロという時もありました。(実は、ブルガリア協会などの集まりに参加される方でも正確に言える方はさほど多くないのです)また、恐る恐る手を挙げた方に答えていただくと、ひどい方になると(失礼!)中近東とか中央アジアにあると堂々とお答になる方もおりました。次に「ブルガリアと聞いて何を一番連想しますか?」という質問にはほとんどの方が「ヨーグルト」とお答になります。(これは明治乳業さんに大いに感謝しないといけないのですが)

「ブルガリアン・ヴォイス」や「バラ」という答を聞くととても嬉しくなったことを思い出します。(最近は、琴欧洲という名前も結構でます)

なぜブルガリア?

さて前置きはこのくらいにして、そろそろ本題の「私とブルガリア」についてのお話に入ります。「何故ブルガリアなのですか?」何十回いや、ひょっとすると何百回も私に向けられた質問です。おそらく「フランス」や「イタリア」であればこうもしつこく聞かれることはないのでは。最近はまともに答えるのが面倒臭いので「ブルガリアが好きだからです」とそっけなく答えることにしています。すると「ブルガリアのどこが好きなのですか?」と始まります。という訳で、ちょうど良い機会ですのでこの場をお借りして「私とブルガリア」との出会いや関係(?)などをお話させていただくことといたしました。別段感動するようなお話はありませんが、お付き合いいただければ幸いです。

イワン・ヴァゾフ「軛の下で」との出会い

私は学生のころから、いわゆる「東欧」という国々に漠然とした興味を抱いておりました。まさに歴史や地理などの授業ではほとんど触れられることのない地域です。その中でも一番印象的なのは「ヨーロッパの火薬庫」といわれ、第一次世界大戦のまさに導火線となったのがバルカン半島の国。そして旧ソ連に対抗し蜂起した「ハンガリー動乱」や「プラハの春」。これらの出来事が私を大きく東欧諸国に引き寄せた要因です。そのころから私は東欧関係の本などを読み漁り始めました。そしてその頃に出会ったのが、ブルガリアの偉大な作家イワン・ヴァゾフの「軛の下で」と五木寛之氏の「ソフィアの秋」でした。「軛の下で」の感動は今でも胸に焼き付いています。恐らくこれが私とブルガリアとの最初の出会いだったと思います。何としてでもブルガリアに行ってみたいという思いが募ってきましたが、当時の私にとっては、ブルガリアはやはり「遠きドナウの果ての国」でした。しかし数年後、やっと私にそのチャンスが巡ってきたのです。初めての感動的(?)なブルガリアとの出会いに関してのお話は次回にいたします。

(続く)

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再びブルガリアン・コスミック・ヴォイセズに出逢えた!
2009年8月1日 海藤晴子


 私がブルガリアン・コスミック・ヴォイセズ合唱団に出会ったのは2005年にブルガリアをバラの季節に訪れた時。サロン風のスペースで私たちのツアーのためにだけに開かれたコンサートで美しい民族衣装で歌ってくれた。身体の中を通り抜けるあの時の清々しいサウンドを、もう一度聴きたいと思い、翌2006年に、今度は歌の仲間たちと自分たちのコンサートを兼ねて同国を訪れ、又々聞かせていただいた。プライベートなコンサートで、それは贅沢なひとときであった。言葉で表現することが難しいほどに、心に迫ってくる。声々の魅力で身体全体、包まれた感動は、前年に勝るものもあった。帰国してからも、もう一度聴きたい、また訪れようと思っていた。その、彼女たちが来日を希望している、とブルガリア・ローズ・ジャパン社長の染谷氏から聞き、「その時は手伝ってほしい」と頼まれたのが2年位前だった。私にできることは何でもするつもりだった。来日が近づき、私が手伝うのだったら、ホールは、和光市のサンアゼリア・大ホールしかないと思い、それが実現でき、そして、彼女たちのファイナル・コンサートになったことは、いま思い返しても感慨深いものがある。

最初は聖歌のステージ、宗教の違う日本人の心にも、彼女たちの第一声から心に響き、ブルガリアに根付いた深い独特の発声が、曲をより一層清らかなものにしていた。身じろぎもせずに聴き入った。次のステージではブルガリアの楽器と歌のソロのステージで、それは初めて聴いたので、切ない哀しい調べの歌声に郷愁を感じた。最後のステージは、今日のメインで21人の民族衣装が並び、ブルガリアの音楽をたっぷりと、彼女たち一人一人から発する、声の音楽に酔いしれた。哀愁を帯びた曲、叫び合うような陽気な歌、どれも、合唱の最高のテクニックを要するもので、あのハーモニーは難しい。曲間の拍手の内に調子笛で次の曲の音をとり、ヴァーニア先生(指揮者)が、指揮を始めるときはすでに音が決まっている。まるで、全員に絶対音があるかと思わせるような、ステージ上の流れにも感心した。最後の音を伸ばして終わる曲のハーモニーの素晴らしさは、到底日本人の合唱団には出来ないものである。最後に、日本での“ふるさと”に当たるような、ブルガリアの国民的な歌をヴァーニア先生の指揮で、ステージと客席が一体となって歌えたことは、来場した聴衆の皆さんに、より一層この日のコンサートが胸に残ると思い、又々感動した。

再び訪れて、本国であの声に会いたい。
 バラ畑で農夫たちが呼び合っていた、同じようなあの声に、バラの中で会いたい。
 ブルガリアはそんなに遠くない国。
 とても気持の優しい国民たちの国。

 大好きです!!

SWAN童謡の会指導(ソプラノ歌手)
21世紀の合唱を考える会・音楽樹会員

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ブルガリア文学『軛の下で』を読んで(注)

2009年7月1日 駿河台大学メディア情報学部教授  加藤修子

 ブルガリアの国民的作家イワン・ヴァーゾフの“Под игото”『軛の下で』(日本語訳)を読みました。19世紀の後半、オスマン・トルコの圧制に苦しむブルガリアの歴史小説として、重く心に残りました。あまりにも重いので、軽々しく感想など述べることはできません。ただ、今言えることは、今後これ以上の作品に出会うことがあるだろうかということです。
 ブルガリア人は皆“Под игото”『軛の下で』を読むのだと思いますが、何歳くらいで読むのでしょうか?学校教育の中で取り上げられるのでしょうか?もしそうであれば、どのように紹介される(教えられる)のでしょうか?

ラーダの学校と修道院

 翻訳者の故 松永緑彌氏によれば、この『軛の下で』は史実であり、登場人物は名前こそ変えてありますが、すべて実在した人たちであるということです。主人公のオグニャーノフ、その恋人であり修道女で学校の先生のラーダ、蜂起の同志であるソコロフ...登場人物はすべて実在したのです。
 歴史に名前の残っている革命家や解放運動指導者としてレフスキやボテフは知られていますが、何人もの若い蜂起者が非業の死をとげたことを重く受けとめています。
 オスマン・トルコの500年にわたる軛の下から脱しようと試み失敗に終わった四月蜂起から100年以上の歳月が経ちました。ブルガリアはトルコの軛の下にあった500年余りの間に、多くの文化をトルコから受け入れたのも確かです。それは生活様式や料理にも表れています。
スネジャンカ(白雪姫のサラダ)
スミット
ゲヴレック(シュミット)

代表的なブルガリア料理の「サルミ」はキャベツやブドウの葉でくるんだロールキャベツ風の一品ですが、トルコでは「ドルマ」といいます。「スネジャンカ」(白雪姫のサラダ)という水切りヨーグルトにきゅうり、ニンニク、ディルを加えたサラダは、トルコでは「ハイダーリ」といいます。「ゲヴレック」という紐状生地を2本ねじってリング状に成形したゴマつきリングパンは、トルコでは「シュミット」と呼ばれ街角の屋台でよく売られている庶民的な食べ物です。このように、多くの料理がトルコからブルガリアにもたらされ、生活の中に溶け込んでいったのです。ブルガリア料理のレストランをメハナといいますが、トルコでは居酒屋のことをメイハネといいます。メハナではキリムという赤いテーブルクロスが必ず使われています。料理や文化、芸術には国境も人種もありません。昔も現在も、ブルガリアはトルコと強い絆で結ばれています。人々の暮らしもそうです。年月は過去の不幸を忘れさせてくれます。

機会がありましたら、皆さんも『軛の下で』を読んでみてください。歴史小説と感じるでしょうか?大ロマンと思うでしょうか?『軛の下で』は長い作品です。文字も小さく、さらに小さなルビが何箇所もふってあります。「火酒」には「ラキア」とルビがふってありました。ラキアは果実の蒸留酒でブルガリアを代表するお酒です。まさに火酒とあるように、とても強いお酒です。『軛の下で』の主人公オグニャーノフがラキアを飲む場面が何度も出てきました。


参考文献


ヴァーゾフ,イワン;松永緑彌訳 
“Под игото”『軛の下で』 恒文社


地元民も通うトルコ料理店で陽気に楽しむ心の交流 「はれ予報」 20096月号

(注)軛(くびき)=車の轅(ながえ)の先端につけて、車を引く牛馬の頸の後ろにかける横木。
(比喩的に)自由を束縛するものとして用い、「国家の―から脱する」などという使い方もする。

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