『ルーマニアの村への初訪問』


 「シェ・マイ・ドーディシ?(あんたまた来るの?)」と言われて、「ダー(うん)」と力強く僕は答えた。すると、「コギー(いつ?)」と決まって聞かれる。大学院生の身で日本からはるか遠いこの土地までやってくることは何より金銭的に難しい。僕が返答に窮していると、「シェ・ドーディシ・ギートゥ・モージシ(来れるときにくればいいわよ)」と決まって言ってくれる。彼らは僕がまた来るとは思っていなかったのかもしれないが、実際には様々な渡航のチャンスを得て、その後、比較的短い期間で数度にわたってお邪魔することになった。

村訪問への道―

 2012年の春、所属する大学の補助を得て、初めてルーマニア・ブカレスト近郊のブルガリア人集落へ行くチャンスを得た。ブカレストは以前にも何度か訪れたことはあったが、フィールドワークのために郊外の村に入るのは正真正銘初めてであった。もちろん、どのようにそれら郊外の村に行けばいいのかもよくわからない。自分でインターネットで調べたり、地元の友人にもいろいろ聞くが、なかなかはっきりしない。困った末に、結局知り合いにタクシー運転手を紹介してもらい、送ってもらうことにした。よくわからないまま地元の交通機関を使うのも不安であったし、幸いにも補助金のおかげでお金にある程度余裕があった。タクシーを利用することはもちろん抵抗があったが、ぼったくられない限り、当地のタクシー料金は、日本の東京都内でのタクシー料金と比較すれば驚くほど安いのだ。というわけで、その知り合いにタクシーの派遣を依頼した。


 B村役場

 さて、最初に行くことに決めた村は、B村である。この村は、その後調査でバルカンにやってくるたびに必ず顔を出しており、今では馴染みの村である。B村は、ブカレストの市街地の東に位置にしており、車で30分程度の距離である。どのような場所であるかもいまいちわからないが、ともかく行ってみようと決意した。当日、やってきたタクシーの運転手に場所を説明し、いざ出発。僕の心では不安と期待が交錯していた。まず向かったのは、B村の村役場である。これは、初めての現地調査に出かけるに際して、フィールドワークの経験のある先生方から頂いたアドバイスに従ったためである。村役場で事情を話して、インフォーマントを紹介してもらう必要があるのだ。


 B村の通り

村の人も、村役場の紹介だと、さほど警戒せずに受け入れてくれるということであった。確かに、誰の紹介もなく突然訪問してきた外国人を見て、田舎のおじいちゃん・おばあちゃんは警戒心を持つのは疑いがない。僕だって、日本で同じようなことになったら、居留守を使うだろう。村役場は、ブカレスト市内からたどってきた大きな幹線道路に面していた。ブカレストと黒海沿岸の町、コンスタンツァを結ぶ幹線道路であるため、車の往来も激しい。この道路は、B村の真ん中を突っ切る形でとおっている。村役場に到着して、緊張感も増す。無理を言って、タクシー運転手に一緒についてきてもらった。いくら村役場であっても、突然アジア人の訪問を受けたら驚くであろう。同国人のルーマニア人に伴われていけば、幾分受け入れてもらいやすくなるだろうと考えたのだ。そのおかげか、話は思ったより簡単に進んだ。村役場の担当者からは、住所と名前を書いた紙が渡されたのだ。もちろん、それはブルガリア語話者のものであるはずだ。そんなに簡単に連絡先をもらえるとは思ってもみなかったので、すっかり拍子抜けした。タクシーの運転手に頼んでその住所まで運んでもらい、あとは帰りの迎えの約束をしたら、彼は帰って行った。

―最初のインフォーマント―


 庭のブドウ畑

 その家は、村役場にある通りと同じ通りに面していた。どの家も大体同じであるが、家屋に加えて、必ず庭がある。B村では、それらの庭で野菜を栽培したり、家畜を飼ったりしているのだ。要するに、日本の都市圏にある家とは違い、かなり本格的な家庭菜園と家畜小屋が大体どの家にも備わっている。その初めて訪れた家も例外ではなく、道路に面した側には庭が広がり、その奥に家屋が建っている。しかし、その庭と家は、塀が囲んでおり、中は容易には見渡せない。塀とは言うが、コンクリートブロックやレンガのような立派なものを想像してはいけない。トタン板である。場所によっては傾いているところもあるくらいだ。そのトタン板を取り外しできるようにした扉が一つついている。

 その扉をあけて出てきたのは年老いたおばあちゃんだった。若いころからずっと畑仕事を続けてきたからであろうか、腰もだいぶ曲がっている。その時は、庭先で仕事をしていたらしく、ドアを大きく叩き、声をかけるとすぐに出てきた。さっそく僕は、この村でブルガリア語話者を探しており、村役場から紹介を受けてここにやってきたということを、村役場のメモを見せながら、たどたどしいルーマニア語で伝えた。どうやら、村役場で教えられた人は、このおばあちゃんのご主人であるということがわかった。それと同時に、このおばあちゃんも民族的にはブルガリア人であり、ブルガリア語を話すことが分かったのだ。おばあちゃんの勧めに従って、トタン板の塀のところにある小さなベンチに腰掛けて、お話を聞きながらご主人の帰りを待つことにした。

 こっそりとICレコーダーを取り出し、録音を開始した。方言話者との会話はそう簡単にはいかないと思っていたが、いきなりつまずくことになった。まずは名前を聞こうと思って、「カーク・セ・カーズヴァテ?(お名前は何ですか)」と標準ブルガリア語で尋ねたのだが通じない。どうやらB村の方言ではこのような言い方はしないらしいということが分かった。おばあちゃんは、僕があまりブルガリア語を話せないと思ったらしくルーマニア語を使い始めた。彼らのブルガリア語の発話を録音しに来たのに、ルーマニア語で延々と話されては困る。とはいえ、あとのデータ整理のためにも、名前は聞かなくてはならない。仕方なく、「クム・ヴァ・キャーマ?(お名前は何ですか)」とルーマニア語で尋ねた。言うまでもなく、すぐに返事が返ってきた。「Pだ。」と返答があった。このようにして、Pおばあちゃんは、僕の最初のインフォーマントとなったのだ。

―野菜の単語レッスンとコーヒー―

 Pおばあちゃんは、僕がブルガリア語を学びに来たというので、僕にブルガリア語の語彙を次々に教えてくれた。ルーマニア語で〜は、ブルガリア語では・・・だ。という具合に。面白いことに、おばあちゃんが挙げる単語は全部野菜だった。自宅でも野菜栽培を行っているし、毎日食べるものだから、おばあちゃんにとっては最も身近な語彙であったに違いない。とはいえ、いつまでも野菜の話ばかりしているわけにもいかず、あとで、研究データとして用いる際に必要となるインフォーマントの情報を尋ねることにした。いずれも標準ブルガリア語で話したが、問題なく通じた。ただ、年齢を尋ねたときに、おばあちゃんは「オプトゼチ・シ・ドイ(82)」とルーマニア語で答えた。これは後になってわかることだが、バイリンガルの彼らは数字に関しては、ルーマニア語がとっさに出てくるようである。「ブルガレシュテ?(ブルガリア語では?)」と僕が尋ねると、何とか答えてはくれるが、ブルガリア語の数詞を言うのに苦労する人も少なくなかった。

 さて、時間はどんどん過ぎて行ったが、おじいちゃんはなかなか帰ってこない。Pおばあちゃんとは一問一答の会話が続いていたが、こちらが話のネタを切らしてしまい、何を尋ねようかと思い悩むようになると、沈黙の時間も続いた。何か話題を振らなくては!と焦れば焦るほど、何も頭に浮かんでこない。おばあちゃんは、さすがに待ちくたびれたのか、幹線道路に面したベンチから腰を上げると、入れ、とトタン板の扉を開けて言った。僕は、家の敷地に入れてもらえることをありがたく思った。なぜなら、幹線道路はひっきりなしに車が行き交い、大型車やトラックなども少なくない。それゆえに大変な騒音で、ICレコーダーにちゃんとおばあちゃんの声が録音されているか不安でしかたなかった。敷地内に入ると、ガーデンチェアに座るように言われ、おばあちゃんは家の奥に入っていってしまった。急に一人になって、気が抜けた。ぼんやりと庭や家屋に目をやっていたら、おばあちゃんが家の中から何かを運んできた。何かと尋ねると、「カフェ」と答えた。いわゆるトルココーヒーであった。まさか見ず知らずの突然の訪問者にコーヒーを出してくれるとは思わなかったので、ちょっと驚いたが、ありがたくいただいた。しかし、おばあちゃんはコーヒーを置くと、そのまま立ち去ってしまった。様子を見ていると、どうやら仕事を始めたようだった。僕は、おばあちゃんのような年代の人は、年金をもらいながらゆっくりとした生活を送っているものだとばかり思い込んでいた。しかし、それは誤りであることに気付いた。畑の手入れや家畜の飼育など、彼らにはやらなくてはならない仕事がたくさんあった。とにかく忙しいのだ。おばあちゃんは、突然の訪問者である赤の他人の僕の相手をしている暇はなかったのである。後で知ったことだが、片田舎にすむ老人たちの生活はかなり厳しい。年金はスズメの涙ほどで、極めて質素な生活を送っているようだ。食物もかなり自給自足でまかなっている。彼らが家の庭で野菜を育て、家畜を飼育しているのは、他ならぬ自分達が食べるためなのだ。そして、残りは町に売りに行っている。この生活は昔から続いているものらしい。そんなことを知る由もない僕は、お仕事中のおばあちゃんのお邪魔をしているにすぎなかったのだ。

―おじいちゃんの帰宅、そして泥棒―


 庭と家畜小屋を案内してくれるおじいちゃん

 そうこうしているうちに、いよいよおじいちゃんが帰宅。言うまでもないことだが、自宅のガーデンチェアに座る東洋人を見て、不審に思ったようである。おばあちゃんが説明してくれたが、おじいちゃんは警戒心をまだ持っているようだった。とりあえず、仕事にいそしむおばあちゃんをわき目に、おじいちゃんとの会話が始まった。が、おじいちゃんはルーマニア語を話し始めた。僕がブルガリア語で話しても、ルーマニア語で話し続けたのである。どうやら僕


 庭の風景1

 庭の風景2

のブルガリア語は通じているようだが、おじいちゃんのほうはブルガリア語ではほとんど話してくれなかった。困りはしたが、とにもかくにも録音を続けたい僕は、粘り強く、半分理解できないおじいちゃんとの会話を続けた。

 僕は、今回フィールドワークに出かけるに際して、日本からお土産を持ってきていた。それは、高価なものである必要はなく、また話のタネにもなるので、持っていくようにとのアドバイスをもらっていたためである。カバンの中に、100円ショップで買い集めた和風のお土産を放り込んできたことを思い出した僕は、それらを取り出して、おじいちゃんとおばあちゃんにプレゼントしたいと渡した。残念ながら、おじいちゃんの興味はあまりひかなかったようで、ろくに見向きもしなかったが、おばあちゃんはそれをもらってくれた。そんなところへ、若いルーマニア人らしき男性が家の敷地内に入ってきた。

 彼は、僕の所へ来て、英語であいさつをした。彼は、このおじいちゃん・おばあちゃんの孫であるということであった。当然のことではあるが、なぜ僕がここにきているのか、何をしているのか、という質問攻めにあった。僕は丁寧にそれらの質問に英語で返答していったが、それらの質問の背後には、僕に対する強烈な警戒心が潜んでいるのを僕は感じ取った。そのうちに、彼は「ここらへんは泥棒が多いんだ」と言い出した。僕は最初気づかなかったのだが、やがて彼が僕を泥棒と思い込んでいるということに気付いた。それに気づいた僕は、自分が研究目的でやってきていて、決してそのような怪しい者ではないということを力説したのだが、「残念だけど、君の言っていることを信じることはできない」と言い放った。でも、よくよく考えてみれば、当たり前のことである。僕は、どう考えたって、彼らにとっては怪しい人間である。僕の従事する研究の意味は理解してもらえないだろうし、たとえそれが理解してもらえたとしても、それをはるかかなたの国からやってきた外国人がやっているということは到底理解できないだろう。僕にとって、そのおじいちゃんとおばあちゃんはせっかく見つけた最初のインフォーマントであるだけに、簡単に引き下がらなかったのだが、そのうち彼は仕事があるからと言って、何事もなかったように去って行った。それまでわりとすんなりとインフォーマントにたどり着くことができたこともあり、調査を楽観視していたが、初めてその障害にぶつかったのを実感した。

 孫が帰ると、おじいちゃんがまた僕の相手になった。けれども、うまくかみ合わず、話しも続かない。さすがに退散しようかと考え始めた。するとおじいちゃんは最後に庭を案内してくれて、家畜小屋も見せてくれた。しかし、このまま家の外に出てしまえば、次はどうするのだ?おじいちゃんに、ブルガリア語を話せる知り合いがいたら紹介してほしいと何度かお願いしたが、「ダーダー(はいはい)」と答えるだけで、願いを聞き入れてくれるようなそぶりは見せない。それどころか、僕をトタン板の入り口まで連れ出した。僕は、礼を言って、おじいちゃんと別れた。

 騒々しい通りに出ると、外国の知らない田舎町の真ん中で一人ぼっちにされ、無力感を感じた。せっかくインフォーマントにたどり着けたのに、振出しに戻ってしまったのだ。フィールドワークの難しさを痛感した。このような調査は、人対人の作業である。お互いに信頼関係を築くことの重要性を肌で感じ取った。今までのように、机の前で、出来上がった言語資料やテクストに取り組むのとは大違いなのだ。その時点で、僕の心はおれかけていて、調査を断念してブカレストの宿泊先に帰りたい気分になった。しかし、帰ろうにも自力で帰る方法がわからないし、タクシーの運転手との約束は夕方であり、まだそれまで45時間もある。僕は、足を再び村役場のほうへ向けた。別の人を紹介してもらうためだ。もちろんうまくいくかはわからないが、どうやらそうする以外に選択肢は残されていなかったのだ。

目次へ戻る