『ルーマニアの村への初訪問』(続き)


―新たな希望


 Pおばあちゃんの家

 ルーマニアの片田舎のB村でたどりついた最初のインフォーマントであるPおばあちゃんとおじいちゃんの家を出た。家の前を通る幹線通りに沿って村役場のほうへ向かった。村役場とPおばあちゃんの家は同じ通りに面しているため、道はわかりやすい。迷うことなく進むことができたのは幸いであった。あまりうろうろしていると変に目立ってしまうため、さっさと歩き去りたかった。しかし、ただ歩いているだけでも、明らかに地元の人ではない身なりをしている僕は、通りがかりの人々の目を引く。もっとも、行きかう人々はそれほど多くはないのだが。自動車の往来のほうがよっぽど激しい。それでも、そのような視線は、決して居心地がいい物ではない。ましてや、泥棒扱いされた後である。自然と早歩きになっていた。

 やっとの思いで村役場にたどり着くと、入り口にいた女性警備員は先ほどの僕の訪問を覚えていてくれて、すぐに中に通してくれた。担当者らしき人物のところに通されて、改めて誰かブルガリア語を話す人を紹介してもらうようにお願いした。すると、少し待ったあとに、あっさりと次の行く場所を指示してくれた。教えてもらった人物に会うために、僕は意気揚々と役場を出た。聞いてみるものである。Pおばあちゃんの家での挫折は僕の調査に対する気持ちを消極的なものにさせたし、役場に戻っても、あやしいルーマニア語しか話すことができない日本人を相手にしてくれるとは思えなかった。また同じようにスムーズに事が運ぶわけはない。こんなときは悪いことばかり思い浮かぶものである。しかし、実際にはあっさり次に希望をつなぐことができたのである。入り口の女性警備員に至っては、笑顔で僕に成功を祈ってくれた。折れそうであった心は折れずにすんだ。

 指示された場所は、村役場をはさんで、Pおばあちゃんの家とは反対方向に向かうことになる。歩いて進んでいくと、村のはずれが見えてきた。その手前を右に曲がると緑にあふれた一角がある。どうやらそこが指定された場所のようであった。

―校長

その敷地に入ろうとして、足が一瞬止まってしまった。そこはどうみても小学校であったからだ。小学校!?役場で与えられた手書きの地図と比べてもここ以外にはなさそうである。勇気を振り絞り、中へ進み、建物の入り口らしきところへ到達した。そこで入るのを躊躇していると、関係者らしき人が声をかけてきた。村役場からの紹介でやってきた旨を伝えると、中へ誘われた。僕が通された場所は、割合立派な部屋であった。どうやら校長室のようである。ここで待つように言われたので、緊張した面持ちで待っていると、大柄な男性が現れた。威圧感はなく、むしろ親しみやすい雰囲気を持っている。周りの状況やこの人物の身なりを考慮すると、どうやらこの小学校の校長であるらしかった。彼はさっそく僕の来訪の事情を話すように促したので、簡単な自己紹介をしたあとに、今まで人に会うたびに繰り返してきた説明をほとんどそのままに伝えた。このB村ではブルガリア語の方言を話す人がいると聞いて、その言葉や人々に関心を持ち、学術的な調査を目的としてやってきた。ブルガリア語話者と話をしてみたいので、誰か紹介してもらうことはできないだろうか、と。その人物は、時折うなずきながら僕の話に真剣に耳を傾けてくれた。僕が幾分つたないルーマニア語を話すため、言葉に詰まってしまうこともしばしばであったが、そんなときもじっと辛抱強く待ってくれたりもした。僕が一生懸命ルーマニア語で話していることに、この人物が好感を覚えてくれたのかもしれない。いわゆる“マイナー”言語を話せると、有利に働くことがある。片言でもその言葉を話すと、その母語話者は本気で喜び、対応ががらりと変わったりもする。国際語たる英語を片言で話すだけではありえない話である。一通り話し終えると、彼は僕にいくつかの質問を与えた。僕はそれに対して、できる限り丁寧に答えた。すると、彼は事情をすっかり理解してくれた様子で、そういう事なら協力者としていい人物を紹介すると言った。僕はすぐにでもブルガリア語話者を紹介してもらえるのかと思っていたので、少しがっかりしたが、遠回りながら事態は前進しているように思えたので、身を流れに任せてみることにし、彼の言うとおりにすることに決めた。彼はその事情通(?)の人物に電話をかけ、こちらに来るように依頼してくれた。

―バジェナリへ

 10分ほどしてその人物はやってきた。F氏である。僕のB村での調査で後に最大の協力者となることになるこの人物は、先ほどの校長と比べると身長は低いが、やはりがっしりとした体型であった。何より驚いたのは、標準ブルガリア語を多少話すことができた。そのため、彼との意思疎通は予想以上に容易に行うことができた。初めての場所で、初めて会う人々と、決して得意とはいえないルーマニア語だけで必死にもがいてきた後であったので、すごく救われた気分になった。F氏はある程度の事情をすでに電話口で聞き知っていたので、一から説明する手間は省かれることとなったものの、自分の口からもある程度、補足的にこれまでの経緯と事情を簡単に伝えた。彼は、学習によって習得したという標準ブルガリア語を交えながら、何人か現地のブルガリア語方言を話す知り合いがいるので、紹介すると言った。僕はその申し出をありがたく受け入れると返答した。そうと決まれば、早速行動開始である。F氏の“ハイ”「さあ」という掛け声とともに腰を上げた。僕は校長に礼を述べ、F氏の後に従って小学校を出た。そして、導かれるがままに、建物の外の通りに止められた彼の車に乗り込んだ。


 B村の通り

 車が動き出すと、村のはずれから中心部に向かって走り出した。我々がいた小学校や村役場がある場所は村の北のはずれに位置し、中心部はこれより南にあることになる。中心部を通っている際に、F氏は時折、「これが市場だ」、「これが駅だ」、「これが教会だ」という具合に、村の簡単な紹介をしながら運転を続けた。もちろん中心部はあっという間に過ぎ去った。決して大きな集落ではないのである。我々はさらに南下を続け、その合間に彼はB村へのブルガリア人の移住に関する簡単な情報も教えてくれた。彼の説明によれば、我々の向かっているところはB村の中のBăjenari「バジェナリ」という地域らしい。これは「逃亡者、避難者」などの意味を持ち、ブルガリアから逃れてきた人たちが最初に住み着いた地域であることがこの地名の所以らしい。現在でも、ブルガリア語話者のお年寄りが多く住んでいるとのことであった。つまり、先ほどまでは、村の中で比較的新しい地区で、ブルガリア語話者が少ない地域にいたのである。さて、F氏はその地区の中で最もブルガリア語をよく覚えているおじいちゃんのところに連れて行ってくれるとのことであった。

―Dおじいちゃんとの出会い

 車はある家の前で止まった。降りるよう促され、一緒にその家の入り口らしきところへやってきた。家の周りは例によってトタン板のような壁で囲まれ中を見通すことはできない。F氏はその扉を強くドンドンドンと叩き、大きな声でおじいちゃんの名を叫んだ。それを何度か繰り返すと、白髪で青い目をしたおじいちゃんがゆっくりと中から出てきた。F氏とは異なる体型で、ひょろりと背が高い。少し腰は曲がっているが、足取りはしっかりとしていた。僕はICレコーダーを構えた。F氏と、そのDおじいちゃんはルーマニア語で話し始めた。はっきりとした口調で、ゆっくりと話す。いかにもお年寄りの話し方であったが、それは非母語話者である僕にはわかりやすくて非常に助かる。F氏がDおじいちゃんに「彼はブルガリア語のほうがわかるんだから、ブルガリア語で話したら」と言うと、おじいちゃんは即座に使用言語を切り替え、B村のブルガリア語方言で話し出した。待ちに待った瞬間であった。

 おじいちゃんは今日はちょっと体調が悪いと前置きした上で、少しずつ話しをはじめた。自分には子供がおらず、現在はお姉さんの孫にあたる男性とその奥さんと同居しているという。おじいちゃんは、その男性のことを大変な働き者であると褒めつつ、彼についての話をいくつかしてくれた。その男性がMという企業の工場で働いていることや、そこでの男性の勤務形態についても詳しく教えてくれた。ちなみに、その工場はこの村の郊外にあるらしい。おじいちゃんはお酒は飲まないが、昔は少しだけ飲んでいたという。飲みすぎると頭をダメにしてしまって、働かなくなるからお酒は少しだけなんだとか。今度改めて僕がお邪魔するときにはワインとラキヤを用意しておいてくれるとも言った。おじいちゃんは話し出すと止まらない。我々はおじいちゃんの家の入り口で立ち話をし始めたわけであるが、立ちっぱなしのままとにかく話し続けるのだ。また、後になってわかることであるが、このおじいちゃんは実際に何時間でもノン・ストップで一人で話し続けることができる。本当に。お話が大好きなおじいちゃんである。それを知っているからなのか、F氏はようやく途中で止めに入り、翌日に家の中でゆっくり話そうとと提案する。ようやく話に区切りをつけて、明日10時にまた来るということを確認して、F氏とその場を去った。

F氏は、初めて流暢に現地のブルガリア語方言を話すお年寄りに出会ったことで興奮気味の僕を車に乗せて、今度は村の郊外にある工場にやってきた。そう、Dおじいちゃんのところの働き者の孫が働いている工場である。とても大きくて立派な工場であった。F氏は日本の工場だ、と言った。日本?僕が知らなかっただけであったが、Mは日本の企業であった。その海外工場の一つがなんとこのB村郊外にあるのだ。しかも、日本人の社員もブカレストから専用車で毎日通ってきているとのこと。海外の田舎の村で日本とは何の関係もないと思っていたこの村にも日本との接点があるということを知ることになった。話を聞く限りでは、このB村に一定の雇用をもたらしているようである。Dおじいちゃんのところの孫がそこで働き口を見つけたように。我々は中には入らず、外からその工場を眺めて村へと引き返した。

F氏の自宅に招かれ、お茶を飲みながら世間話をし、その後村役場まで送ってもらった。昼に僕を連れてきたタクシーの運転士と、この村役場の前で落ち合うことになっていたのだ。F氏とはDおじいちゃんの家に連れて行ってもらうため、また翌日会うことを約束し、礼を言ってその場で別れた。村役場の入り口には相変わらず女性警備員がおり、予定の時間になっても来ないタクシーを待つ間、その警備員と談笑して時間をつぶした。やっとのことで来たタクシーに乗ってブカレストの滞在先ホテルに戻る途中は、往路の時とは異なり、不安よりも期待が大きくなっていた。帰り道では、何も知らない世界に飛び込んでいくときの不安はほとんどなくなっていたのである。もちろん、まったく不安がなくなったというわけではないのであるが。これからB村のバジェナリ「“避難者”地区」に住むブルガリア語話者のお年寄り自身との出会いはもちろんのこと、何より彼らの話す言葉との出会いが楽しみで仕方なかった。このようにして、その日は僕の研究の新たなスタートの日となったのだ。

その夜、安ホテルの自室でウルススの缶ビールを開けたことは言うまでもない。

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