このページは、ブルガリア・プロブディフの友人を訪ねて1人旅をされたhyemijaさんの体験報告を掲載するページです。
(hyemijaさんは、以前にホームページの掲示板に投稿され、その後出発までに何回かソフィアファミリー事務局と情報交換をしてまいりました。)
旅日記目次(各タイトルをクリックすると該当のブロックにジャンプします。)
回 | 日記タイトル |
第1回 | 始めに |
第2回 | 1日目 深夜のソフィア空港にて |
2日目(1) リラの僧院へ | |
第3回 | 2日目(2) リラの僧院 |
第4回 | 3日目 ソフィア市内廻り、そしてプロヴディフへ (1) |
第5回 | 3日目 ソフィア市内廻り、そしてプロヴディフへ (2) |
第6回 | 4日目 ヒサール温泉と遺跡 |
第7回 | 5日目 バチコヴォ僧院とプロヴディフの街 (1) |
第8回 | 5日目 バチコヴォ僧院とプロヴディフの街 (2) |
第9回 | 6日目 エタル屋外博物館とソコルスキ修道院 (1) |
第10回 | 6日目 エタル屋外博物館とソコルスキ修道院 (2) |
第11回 | 7日目 ヴェリコ・タルノヴォ、ガブロヴォ、プレヴェン (1) |
第12回 | 7日目 ヴェリコ・タルノヴォ、ガブロヴォ、プレヴェン (2) |
第13回 | 7日目 ヴェリコ・タルノヴォ、ガブロヴォ、プレヴェン (3) |
第14回 | 8日目 プレヴェン、ソフィア (1) |
第15回 | 8日目 プレヴェン、ソフィア (2) |
第16回 | 8日目 プレヴェン、ソフィア (3) |
第17回 | 9日目 ボヤナ教会、国立博物館 そして離陸 (1) |
第18回 | 9日目 ボヤナ教会、国立博物館 そして離陸 (2) |
第19回 | ●番外編(フランクフルト空港にて) |
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第1回
始めに
今年2月に情報提供をお願いした者です。休日を利用してブルガリアへ行って参りました。ルートはソフィア−プロヴディフ−エタル−ガブロヴォ−ヴェリコ・タルノヴォ−プレヴェン−ソフィア。お陰様で無事、楽しく、ブルガリアを満喫してまいりました。
一番印象に残ったのは古代の遺跡です。日本の遺跡は残っている「一部」を手がかりに全体を復元しますが、あちらの遺跡は「ほとんど」が残っていて一部が復元だったりします。プロヴディフのショッピングモール下には古代ローマ時代の競技場が丸ごと埋まっているとのことで驚きました。また、都市間をバスで移動中小山(盛り土)をいくつも見かけましたが、トラキア人の墳墓だとか。バラとヨーグルトと琴欧州だけではないのですね。
プレヴェンの歴史博物館では日本人形展が開かれていました。雛人形やこいのぼり、武者人形が飾られており、それぞれ人形の持つ意味などが解説されていたようです。
どこへ行っても「キタイカ?」(中国人?)と言われました。よほど日本人が少ないのでしょう。「いいえ、日本人です。」と言うと、「そうか、日本か、ドラマの「将軍」で俺は日本語を覚えたぞ、いつ来た?ブルガリアは気に入ったか?食事は美味しいか?ラキアは飲んだか?日本はどんな酒があるんだ?どこを見てきた?イコンはきれいだろう?」などと質問攻めに遭いました。日本人にはとても好意的という印象を受けました。
休館中の博物館内では合唱の発表会が行われており、ラッキーなことに相当レベルが高いと思われる少年合唱団の歌声を聴くことができました。
国内の移動は長距離バスを利用しました。時刻表をマメにチェックして、あらかじめチケットを買っておく位でないと外すことがあります。実際、あるはずのバスがキャンセルになっていたり、曜日限定運行だったりと行程修正を迫られる場面がありました。日本の感覚で判断してはいけないって事なのでしょう。余った時間は日向ぼっこです。
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第2回
夜、11時過ぎにソフィアへ到着。タラップにて乗り降りという、非常に旅行気分の盛り上がるフライトだった。荷物がなかなか出てこないのでまずはお化粧室へと向かう。ここでちょっとした事件発生。日本では、扉の鍵はツマミを半周ほども回せば施錠/開錠できるが、ブルガリアのそれは2周近くグルグルと回す。個室へ入った際の施錠の記憶はほとんどなく、さて出ようと思ったら扉が開かない!開錠したつもりなのにドアはびくともせず、このまま閉じ込められるのか、と焦る。ドアをたたいてみたり揺すってみたりしたがどうにもならない。こんなとき「アメリカ式」に下50センチも明いていればくぐり出られるものを。一人旅だから誰も気づいてくれなかったらどうしよう、機内に女性はほとんどいなかったからここへは誰も来ないかも、と半ばやけくそで鍵をグルグル、グルグル、カチッ、開いた!ほおーっっ こうして、「日本とは勝手の違う国」に着いたことを強く実感した。
到着ロビーで出迎えてくれた友人に「ずいぶん遅かったですね〜」と心配されたので、「うん、飛行機遅れたし、荷物がなかなか出てこなかったのよ。」と言い訳。まさか「トイレに閉じ込められた」とは言えない。既に空港の両替所は店じまい。タクシーでホテルへ。
深夜、ホテルから2,3分のところにあるマーケットを覗きにいく。日本との物価の違いに驚くと同時に、それが現地価格であることを意識する。
ホテルでタクシーを呼んでもらい、一人でリラの僧院へ行く。ソフィアではOKタクシーという会社が一番安心との事。空港やツェントラルナ・アフトガーラ(バスターミナル)のタクシー乗り場へは、OKタクシーしか乗り入れができない。タクシー料金は走行距離に対していくら、信号待ちなどの待機時間に対していくら、と領収証に明示されて、この点日本のタクシーよりも判り易く良心的であると思う。
タクシードライバーは片言の英語を話してくれる人だったので、片道2時間半のドライブは退屈せず快適だった。助手席に座ったため、「タクシーに乗っている」というよりも「友人とドライブに出掛けている」という感じか。道中の景色、路面の状態、放牧中の羊、牛、撥ねられて死んだ犬(可哀相に)、速度取締りの警官、道路標示、はては道路を横切るトカゲまでよく見えた。
ヴィトシャ山をしばらく見ながら走ったのち、ガソリンスタンドに寄る。なんでも、ソフィア・ナンバーの車が郊外に出るときは、お出掛け(?)シールを買ってフロントガラスに貼っておかなくてはいけないのだそうだ(正式名称は判らない)。そのかわり、という訳ではないだろうが、有料道路はないと言う。自分も普段運転するので、そんな交通事情にも興味深々である。
対向車からのパッシングは「この先でネズミ捕り(取締り)してるよ」の合図、前に入った車のハザードは「ありがとう」の合図、これは日本とく同じだ。突然の減速に、「何かあるの?」と尋ねると「警察の監視所」と言う答え。かなり頻繁に監視所の建物(2階建ての交番程度のもの)を見かけた。
田舎道を走り、山へと向かっていく。ライラック、杏、山桜?たんぽぽ、りんごなどの花が咲き、フキノトウらしきものも見かける。遠くには雪を被った山も見える。「この風景、日本とそっくり。違うのは右側通行ってことくらいかな」と話しかけると、「でも、日本の道のほうがきれいでしょ?」 彼は路面状態のことを言っている。たしかに、日本の道路に穴が開いていることはほとんどなく、整備状況ははるかに上だ。「う〜ん、日本の方がちょっと良いかな。でも、がけ崩れで道が塞がることは日本でもあるよ」と濁しておく。ここは奥入瀬か照葉峡か、と錯覚を起こすような清流沿いの道を行くと、突き当たりに石の壁が見えてきた。リラの僧院だ。
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第3回
運転手に2時間ほど待ってもらうことにし、早速中へ入る。外壁から受けた「石」の印象からは一転、内側は「木」の印象だ。敷地の中央にある建物は、教会でありながらカラフル。そして少しラブリーな雰囲気はピンクのストライプのせいだろう。壁といわず柱といわず、「面」のある場所にはいたるところ絵が描かれている。外側全部の絵を写真に撮りたい!という衝動に駆られたが無謀なので止めた。内部もイコンがぎっしり。額に入ったイコンが数点掲げられているものと思い込んでいたので圧倒される。これがブルガリア正教か・・・
教会というと「薄暗い」「ちょっと怖い」「彫像がにらんでる」等々身のすくむ思いをすることがあるのだが、ここは、不謹慎ながら寛げる。この感じは、この先あちこちの教会で経験することになる。
イヴァン・リルスキーのイコンを見たとき、ふと思った。現地に行くまではリラ村にある僧院だから「リラの僧院」と呼ばれているのだと信じていたが、「リルスキー・マナスティール」とは、実は「リルスキーさんの僧院」という意味であって、「リラ村にある僧院」という意味とは違うのではないか?もしかしたら誤訳?僧院と村と、どちらが先にできたのだろう?アレキサンドル・ネフスキー寺院を「ネバの寺院」とは呼ばないでしょう?どなたか、答えを下さい。
石壁の内側は木造りの3階層、ところによっては4階層に分かれており、そのほとんどが部屋と廊下になっていて、以前写真で見かけた中国の客家を連想した。ところどころ部屋の入り口に絵が描かれているのは、誰か有名な修道僧が住んでいた部屋なのだろうか。勢いよく歩いたら踏み抜いてしまいそうな床板、寄りかかっても大丈夫かと心配になる手すり。それでも、団体客がいなくなった後の僧院内は居心地が良い。
1階の一部が博物館になっている。外国人価格の入館料を払って入る。教会や僧院にまつわる展示物を見て回るが、教会儀式に詳しくないのとブルガリア語が読めないのとで、何に使われたものなのかほとんど判らない。せめて英語表記があればと思う。
入館料5レヴァは高いか安いか。外国人料金設定をどう思うか。信仰の場ではあると同時に、世界遺産であり観光地でもあるリラの僧院に入場料はない。お化粧室を使わせてもらってもタダである。しかし人が集まる以上、それなりの整備は必要となってくるし、ユネスコに登録された以上、世界遺産は守られなくてはならない。
話は飛ぶが、一昨年世界遺産に登録された熊野古道は、あまりの人出に苔むした石畳の「コケ」が剥げて無くなってしまったとか。また、古道周辺住民の庭が荒らされる、といった不都合も生じているらしい。それらのケアのためにある程度の資金は必要だ。そう思うと、割高な外国人料金でも文化財保護などの方面に活用されるのであれば良し、と自分を納得させる。
メキツィとヨーグルトを昼食がわりにし、車に戻る。帰路、「疲れていない?コーヒーブレイクが必要なら言ってね。」と声を掛けてくれる。運転手がチラチラとこちらを見る。最初は気遣ってくれているのかと思っていたが、目線は下のほう、私の手元を頻繁に見ている。何だろう??? あとで友人に話したところ、私の右手をみてニヤリ。「ブルガリアでは、結婚指輪は右手薬指にするもの。」旦那をほったらかして遊びに来た年齢不詳の日本人と思われたか。
今回のタクシー代は往復の金額があらかじめ決まっており、あとは待機の時間分料金を加算する、というものだった。が、ホテルに到着してみるとメーターそのままの金額を要求された。出発前に聞いておいた金額より20レヴァ以上高い。高くなった理由としては、封鎖になっている道路があったので遠回りをした走行距離延長分だという。そのかわり、お出掛け(?)シール代とリラの僧院パーキング代はサービスすると。でも、その道路封鎖は数年前から続いておりタクシー会社が知らないわけはないだろうし、料金はホテルのフロントから2度も確認してもらっているし、お出掛け(?)シールは客が負担するものじゃないでしょ?おまけに一回きりのシールではないんだし。私はそんなに払うつもりないよ、と交渉に入る。すると案外あっさり、10レヴァのディスカウントとなった。ついでに端数も切り捨ててもらって料金を支払い、車を降りた。
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第4回
昨晩マーケットで買っておいたサラダとジュースで食事を済ませ、今日も一人で観光へ出掛ける。アレキサンダル・ネフスキー寺院までタクシーで行き、あとは地図を片手に歩くことにする。が、歩き回るより先に、周辺に集まっている集団に目がいく。何かイベントがあるのだろうか。民族衣装を身に着け楽器を持った集団、バスの中で待機していたり、トランクから大道具を運び出したりしているグループ。リハーサル中なのか音楽に合わせて広場で踊っているおばさん(おばあさん)集団も。踊りながらこちらに笑顔を向けてくる。「東洋人がいるよ」とでも誰かが言ったのか、一人ひとりが次々に振り向きながらこちらを見遣る姿が、振り付けのようで楽しい。
朝9時前のせいか寺院に観光客らしき人はなく、次々と入ってくる人は皆、細い蝋燭を買い、燭台に立てていく。あるいは正面祭壇にもたれて物思いに耽っている人も。観光客よりもまず、信者のためにある空間なのだ。なるべく邪魔をしないようにそっと歩く。入り口売店で小さなイコンや十字架を売っていた。
表通りの蚤の市は、冷やかすほどには集まっていない。ようやく準備を始める人もある。意外なことに、片言の英語を話すおばあさん発見。「木のケースに入っているローズエッセンスはひとつ1.2レヴァ、エッセンスだけだったら10個で5レヴァよ」えっ、木のケース入りローズエッセンス、日本で¥2,100でした。値段に驚く。手編みのソックスなども土地の香りを感じる魅力的な品だが、旅は始まったばかりなのでお土産購入は控えることにする。
ニコライ・ロシア教会は礼拝中だった。遠慮しつつ中に入り、さっと内部を見渡して出てくる。先に見たアレキサンダル・ネフスキー寺院は金色のドーム(半球)だが、こちらの教会は金色のタマネギを乗せている。さらに、青緑色のタイル意匠が白壁に廻らされていて、小造りだけど美しい。
もとは王宮だったという美術館、旧共産党本部の立派な建物を眺めながら考古学博物館に向かったが、早すぎてまだ開いていない。学芸員らしき人に、「聖ゲオルギ教会とローマの遺跡がすぐそこにあるから、先に見ておいで」と勧められ、従う。ビルに囲まれたロの字型の空間に、教会と遺跡があった。観光地であるはずなのに、勿体つけずにひょっこり現れる。日本では観光資源といったら、塀や柵で囲み、看板をつけ、見学料を徴収するのがほぼ当たり前。ここでは、遺跡中を歩き回ってもタダである。そもそも、監視している人がいない。古代ローマ時代の遺跡なのに。不思議だ。お金を払ってまで見ようと思う人があまりいない、ということなのか。
行進する靴音が聞こえたのでそちらに行ってみると、衛兵交替式が始まっていた。なんて良いタイミング。交替を見終わる頃には考古学博物館もオープンしていた。もとはイスラム寺院だったという館内に入ってまた驚く。墳墓の副葬品の多いこと多いこと。どのくらい多いかというと、日本の博物館だったらタタミ一畳分位のスペースで展示すると思われる出土品を、50センチ四方程度のスペースにガサッと置いてある位に多い。ガラスケースの中に、ガサッガサッガサッという感じだ。遺跡と同様、遺物が有り過ぎるのだろうか。これらのほんの一部でいいから、日本で特別展示してくれないものかと思う。見学していて困った点は、英語の表記がほとんどなく、有っても「副葬品一式」程度の説明であることだ。アクセサリー類は見当つくが、何の道具かわからないものも多い。小さな金細工品で、管理ナンバーと思われる数字がマジックで書かれているものを発見。あろうことか、数字の書かれている面を上にして展示してある。模様と間違えたのかな。床には白いものが、、、天井から剥げ落ちてきた漆喰だ。
スヴェタ・ネデリャ教会内では結婚式の真っ最中。次の組も外で待機中。結婚シーズンなのだろうか。頭上から聖歌隊のコーラスが降ってきて、なんともゴージャスな雰囲気に浸る。そろそろ出ようかな、と思うと、またコーラスが降って来て足が止まってしまう。堂内に響き渡る歌声がなんとも心地良い。どうやら式を執り行っている神父様の言葉と掛け合いになっているらしく、神父様がソロ、聖歌隊がバックコーラスのようにも聴こえる。日本に戻ってからクリスチャンにこの聖歌隊の話をしたところ、「カトリックのスタイルと同じ」とのこと。集まっている親類縁者の皆様はあまり着飾らないものなのだろうか。結構カジュアルな服装だ。それとも日本人がドレスアップしすぎ?
オスマン朝時代、イスラム寺院より高い建物はダメと言われたため地面より低く造られた聖ペトカ地下教会、地下鉄工事中に見つかったローマ時代の城塞都市・セルディカの遺跡、ブルガリア初の舗装だという黄色いタイル貼りの道路、ショッピングモールでありながらカフェテリアの横には古代ローマの遺跡が残っているセントラル・ハリなど、古代から現代までが同居している不思議な街だ。
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第5回
昼、タクシーを捕まえてホテルへ戻る。ホテル名を告げると運転手は首を横に振る。「あれ、ホテル知らないのかな?」と思って地図を見せると、また首を横に振って車をスタートさせる。行き先がわからないまま走るのか、と思った次の瞬間に気がついた。「イエスとノーのしぐさが逆なんだ。」
昼食はホテル近くのカフェテリアで、スープとサラダとパン。「軽い食事」と思われそうだがとんでもない。ブルガリアのスープは「飲む」というより「食べる」スープだ。和食で言うなら豚汁、けんちん汁レベルのボリュームがある。そして大抵は、短く切ったスパゲティやお米が具材のひとつとして入っていて、それが小丼一杯分も出てくる。また、ブルガリアのサラダは重い。日本のサラダはレタスで嵩増しされていてお腹に溜まるものではないが、こちらのサラダはスープ同様ボリュームがある。トマト・キュウリ・ピーマン・タマネギなどがザクザクと器に詰まっていて、そこに白チーズの削りかけがたっぷりと。ドレッシングはなく、オイル、ビネガー、塩、胡椒を好みに合わせ使う。ああ、生野菜を食べた、という気持ちにさせてくれるサラダだ。
さて、初めての長距離バス移動である。ツェントラルナ・アフトガーラ(バス・ターミナル)へ行く。「出発間際だと、運転手からチケットを買うのが普通」らしいのだが、売ってたらチケットブースで買っちゃいましょ、ということになり、プロヴディフまでのチケットをとりあえず購入。これが功を奏することになる。出発まで30分ほどゆとりがあったのでゆっくりとお茶をし、5分前にバス乗り場へ行ってみると、なんだか様子がおかしい。え?満席?乗り込もうにも乗車口には人だかりが出来ている。チケットを手に立っていると、運転手が「見せろ」という身振り。なんと!チケットには指定席の番号が入っているではないか。お陰で私と友人は席に座ることが出来た。こんな風に混んでいる時は、通路に立ったり、乗車口のステップに座ったりするのだそうだ。あるいは、満席になってしまうと定時よりも先に出発することがあるらしい。これからは早めに乗り場へ行こう、と心に決める。この後、都市間の移動は全てバスだったが、席番号が入っていたのはこの時だけだった。
出発してしばらくすると、バスは緩やかな丘の続く緑の中を進んで行く。北海道を走っているた気分だ。やがて、日本や韓国で見かけるような小山(盛り土)がポコポコと現れる。「まるで、古墳みたいね」「いえ、本物の古墳です」「えっそうなの!?」 古いお墓は遠く離れた地域でも同じような形になるものなのだろうか。これらはトラキア人の墳墓とのこと。車窓を飽きずに眺め続けていると、あっという間にプロヴディフ到着である。
夕方、博物館内で開かれているコンサートで少年合唱団の歌声を聴いていたら、「ブルガリア」の合唱を遠い昔に聴いたことがあったように思えてきた。独特の発声はとても印象的だ。帰国後、どうしても気になるので調べてみたら、記憶は正しかった。ブルガリア国立合唱団のレコード(CDではない)を、小学校の音楽の時間に聴かせてもらっていたのだった。特に覚えているのは「ほたるこい」というタイトルで、日本の歌を三部合唱に編曲した無伴奏曲である。おそらくは、日本公演か何かの折にプログラムに入れたのだろう。この曲は3パートが輪唱のようにずれて歌い始めるので、それぞれは「ほ ほ ほーたるこい」と歌っているのに、「ほ ほ ほ ほ ほ たる たる たる・・・・」と聞こえる。クラスメートの多くがこの曲を気に入り、歌ってみたいと先生にお願いした。そしてクラス全員で、半年近くをかけて練習した思い出がある。そうだ、あの時すでに「ブルガリア」に出会っていたんだ。
友人の仕事先を訪ねオフィスで話をしていると、友人の同僚の一人が食事を一緒にしようと誘ってくれた。なんと初対面でブルガリア人のお宅に招かれ、夕食をご馳走になることに。突然決まった話なのでマーケットでお惣菜とビールを買い、そのままリビングへ直行だ。招いてくださった方がお買物をしている隙に、友人は市場へ花束を買いに走る。お宅に招かれたときの手土産は、お花かチョコレートが定番なのだそうだ。出来合いのお料理とはいえ、テーブルクロスを広げたり素適なお皿に盛り付けたりして、お料理をグレードアップさせるセンスはさすがだ。リビング内は、ご本人が描いたという絵がたくさん飾られていて寛げる雰囲気。そして、真っ白な猫が3人の間を行き来し、「なでて」と催促してまわる。話に夢中になってなでる手が止まると、「何でやめるの?」と言わんばかりに纏わりついてくる。コミュニケーションは残念ながら、ほとんどを友人の通訳に頼った。招いてくださった方は英語を話さず、解る外国語はロシア語だという。こちらは、日本で唯一手に入るブルガリア語の市販テキストを買って挨拶をいくつか覚えたのと、学生時代の第二外国語でロシア語を齧ったくらい。旅行直前までロシア語復習に励んだものの、たま〜に片言で何か言える程度、相手のロシア語は聞き取れない。それでも、写真を見せていただいたり、ご家族やお仕事の話を伺ったりしているうち、気がつけば深夜になってしまっていた。
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第6回
「ブルガリアの温泉、行ってみたいでしょ」という誘惑には勝てない。二つ返事で承知した、というより「連れてって!」とお願いした。ホテルのバスタオルや石鹸をリュックに詰めて出掛ける。
現地に着くまで、「温泉に入ってまったりするもの」と思っていたがとんでもない。ヒサールは古代ローマ時代の皇帝の保養地だったとかで、立派な遺跡が広範囲にわたってたっぷり残っている。
城壁、野外劇場、商人たちの住居、礼拝堂、兵士達の居住区など行けども行けども積み上げたレンガ跡がそこかしこにある。その筋の専門家ではないが、大昔そこで大勢の人々が過ごしていたと思うと、そしてその跡が現在まで残っていると思うと、嬉しくなってつい多めにシャッターを切ってしまう。デジタルカメラのメモリはたっぷり用意してきたつもりだったが、旅の半ばにして「足りない」と思い始める。
小さな教会の庭で写真をとっていると、とてもきれいなおばあさんが何かを一所懸命に話しかけてくる。「ブルガリア語はわかりません」と伝えても、まだ語りかけてくる。庭がきれいだから写真を撮りなさい、遠い日本からこの教会に来たのなら、必ず神様のご加護がありますよ、といったことを言ってくれている。そう言いながら、私の手をにぎったり頬をなでたりする。今年86歳だというその女性は美しい歯をしていて、ちらりと拝見したところ入れ歯ではなく全て自前のようである。抜けている様子も無い。そのせいか、意味は解らないながらもはっきりとした発音である。とりあえず、覚えている限りのブルガリア語とロシア語を駆使して、お礼を述べて別れる。
ポリタンクを持った人が集まっている場所がある。湧き水汲み場である。美味いから飲んでみろ、と言われて一口。美味しい。後味がまろやかだ。「おいしい!」と顔を上げると、水汲み場の向こうから「そうだろう、そうだろう」と自慢げな笑顔。空のペットボトルを持って来れば良かった、と残念に思う。
かわいらしいレストランで昼食を摂ったのち、温泉へ入りに行く。温泉入口は、昭和40年代に建てられて改修を繰り返している区立体育館、といった風情だろうか、少し暗い感じだ。脱衣所には鍵付きロッカーがないので、貴重品だけはビニール袋にいれて浴室へ持ち込む。ちなみにここの温泉は、日本と同じく「全裸」で入る。洗い場には高いところからお湯が落ちてくるシャワーが10基ほど並んでおり、貴重品袋にしぶきが掛からぬよう置き場所を確保する。湯船は、、、お湯を張った10メートル四方のプールと思えば近いか。湯船の縁に沿って、腰掛けながらお湯に浸かれるよう段差を作ってある。中心部は結構深くて、日本のお風呂のように座りこむことは無理のようだ。天井は高く、お湯は少し熱めだ。入浴者は我々2名を含めて4名、ほぼ貸切状態である。そろそろ上がろうか、と思った頃に3人ほど入ってきたが、まだまだ余裕の広さ。湯上りのマッサージやお休み処があるわけではなく、非常にあっさりとした施設ではあるが、体の芯から温まる良いお湯だ。
遺跡を眺めつつアフトガーラへ戻り、隣接する鉄道駅を見学する。鉄道は一日に2,3本しか走っていないらしい。それなら危険はないだろうと、ホームから線路に降りて写真を撮ることにする。利用頻度が低いというのに、ずいぶんとかわいらしい駅舎が建っていることに気づく。駅正面からはわからなかった。それにホームが広々としている。通勤ラッシュがあるとは思えないのだけれど。
プロブディフへ戻り、市内を散策する。にぎやかな歩行者天国を歩いていると、突然遺跡が現れた。それも、カケラではない。そのまま使えそうな観客席の一部だ。これもローマ時代の競技場跡だとか。歩行者天国になっている通りの真下に競技場がひとつあるのだそうだ。近代的なショッピングセンターの地下も、同じく遺跡の部分が見られるようになっている。郵便局の横の空き地は、会議場の遺跡、丘の上には円形劇場跡である。ローマ時代以前からの要塞の遺跡、ネベ・テペもある。ブルガリアへ着いて遺跡を見るたびに、「そのころ日本では・・・」といちいち考えていたが、やめることにした。古代ローマの時代といえば極東の我が地は縄文・弥生の頃で、ようやく焼き物と稲作にたどり着いたところである。
夕方入ったレストランで、友人に声を掛ける人がいた。先方にとって友人は「ブルガリアでは珍しい日本人」だから良く覚えているようだが、当人は「この人は誰だったかしら?」と記憶検索モード全開である。仕事の関係で2,3度お花を納めたことがあるのだけれど覚えているか?と先方がヒントを出してくれ、これ幸いと「もちろん覚えていますとも」などと調子よく返答する友人。街中ではこういう目に良く遭うのだという。一度しか会ったことのない人でもすぐ覚えてくれるらしく、親しげに声を掛けてくるのだと。その都度、思い出せないけどお世話になった方だったらどうしよう、と思い悩むのだそうだ。極端な場合、実は知り合いでも何でもないのに、○○さんでしょ、と話しかけてくる人もいるらしい。ここまでくると、ほぼ芸能人状態である。プロヴディフは東洋人が少ないので、良くも悪くも見られているということなのだ。
思えばブルガリアに到着してから4日目、あちこちでじろじろと見られっぱなしだ。さすがに慣れてしまい、そんな目線も余裕でかわせるようになった。斜め前のテーブルにいる子供も、こちらを珍しげにずうっと見ている。
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第7回
バチコヴォ僧院へ向かう。バス停から5分ほど歩くと僧院にたどり着く。そこまでは小さなみやげ物店が並んでいる。サンドイッチなどの軽食を売っている店もある。僧院を見学し、バス停前のマス料理店でゆっくりランチを取ってからプロヴディフへ戻るか、さらに山を登っていき山上の祈祷所にあるイコンを見て、景色を楽しみながらお弁当を食べるか、プランは2通りだ。現地へ到着したときのお天気と気分で決めようということになっていた。グリルで焼かれているケバブチェがおいしそうなのでそのサンドイッチを食べたくなり、お弁当に買うことにする。お弁当が決まったので山に登るプランを選択。決める順序が少々違うが、気楽な旅とはそんなものである。
僧院は、数日前に訪れたリラの僧院に比べてこじんまりとしている。教会の屋根はレンガ色をした瓦葺きで、ドーム型の屋根ではなく雨傘を広げた感じだ。礼拝所では、洗礼式が行われていた。通常は閉まっていて中をのぞくこともできない場所だそうだが、丁度良いタイミングでちらっと見回すことができた。もっとも、「見学はだめ」とすぐに出されてしまったが・・・
僧院の入り口に「写真撮影禁止」のサインはあったものの、どの観光客も気づかないのか無視しているのか、シャッターを切ったりビデオを廻したりと遠慮が無い。便乗して数枚写させてもらう。一応、決まりを守っているフリはしてみた。こんなとき、起動が早くて小さいカメラは便利だ。
一旦門を出て、正面の山道を進んでいく途中、数箇所の祈祷所と遺骨の安置所を過ぎた。 小川に沿ったあたりは、日本の渓流と大差ない。やがて緩やかな丘に差し掛かるとそこは芝生のように短い草が生えている草原で、まさにピクニック気分である。遠くには山、両脇には新緑、そして小川が流れている。「アルプスの少女ハイジ気分が味わえる」と友人は言う。そうかもしれない。ヤギとセントバーナードがいればね。
こうして僧院の門から歩くこと30分、小川を渡り岩山に張り付いた狭い階段を上ると、タタミ2畳分もないような小さい祈祷所があった。自然の岩を生かした場所なので、天井も壁も岩がむき出しのままだ。その壁にイコンが直接描かれてあった。こんな山の上まで上ってきて祈る人がいたのか、、、
下りは、お弁当を食べる場所を探しながら進む。ちょっとガタのきているベンチとテーブルを見つけ、そこで食べることにした。到着したときに買ったケバブチェのサンドイッチと水、そしてホテルの朝食バイキングから持ってきたアップルケーキを半分づつ。そばには白い花を沢山つけたりんごの木がある。花をよく見ると真っ白ではなく、中心部がピンク色だ。この木は実が生るのかしら。
バス停前のカフェで、ハーブティーを飲みながらバスの到着を待つ。ここが始発ではないので、見逃すことのないよう見通しの良い席に座る。バス停付近に時々乗用車が停まっては、誰を待つわけでもなくしばらく時間を過ごし、また発車していく。どうやら、同行者を探しているらしい。といっても知り合いのことではなく、「同じ方向に行くならガソリン代割り勘で乗っていかない?バスより早いよ」と希望者を募っているのだとか。知らない人の車にいきなり乗るのはどうかと思うが、ブルガリアではヒッチハイクもあり、だそうだ。
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第8回
プロヴディフに戻り、まずはデジタルカメラのメモリを確保する。撮る枚数を減らそうか、画質を落とそうかと悩んでみたが、せっかくならば出来る範囲で綺麗に沢山写したいと購入を決心した。そして旅行者らしく、少々お土産物を買うことにする。同僚や友人達にはバラの香りのする石鹸やエッセンスを選ぶ。スパイス、インスタントスープといった土地の人と同じ食品はいつも家族の受けが良いので買う。というよりは買って帰らないとクレームがつくので必ず買わなければならない。バラのジャムやラキアは重いので最後の日に買う事にする。そして、日本では少々お高くていつも躊躇していたローズウォーターを、自分だけのために買う。ついでにローズシャワージェルも。
買ったものをホテルへ置きに一旦戻り、改めて街歩きに出掛ける。2階から上が道路にはみ出るように建っている家や教会、博物館になっているお屋敷などが道々沢山あり、飽きることがない。
聖処女教会から、結婚式を終えたカップルが出てきた。私達の手にしているカメラに気づいた参列者が、「二人の写真を撮れ!」としきりに勧める。「何処から来たんだ、日本か、そうかそうか、写真を撮ってやってくれ。」ではせっかくだからと、お二人にお祝いを述べてから写させていただく。付き添いのフラワーガールが何ともかわいらしい。将来はすごい美人になりそうだ。
街角に、遺跡らしい石がごろん、ごろんと置かれている。一応隅に番号が振ってあり、これでも博物館の収蔵品なのだそうだ。持っていく人などいないのだろう。表には文字も刻まれていると言うのに、本当にこれでいいのか?東京の博物館に持っていったら大事にされるだろうに。
鐘の音が聞こえてきた。神学校の鐘楼に人が見える。鐘を鳴らしているところを写真に撮ろうと鐘楼下へ急ぐ。門の前から写していると、中から人が出てきて招き入れてくれる。神学校って、女人禁制ではないの?と一瞬心配になったが、学校の人がOKなら遠慮することないと思い直して入る。入った正面にはキリル&メトディのイコンがあり、振り返ると門の内側上部には聖母子像のイコンがある。以下、友人の通訳を交えた会話である。
「何をしていたんだ?」「鐘の音がしたので写真を撮りにここへきました。」 「日本には鐘はないのか。」「いえ、あります。仏教のお寺の鐘があります。」「どんな音がするんだ」「教会の鐘より低い、ゴーーーンという音で、一突き一突きの間が長いです。」「そうか、鐘に興味があるのか」そして、鐘楼の入り口階段を見せてもらった。ものすごく狭くて小さな階段だ。さすがに昇らせてはくれなかった。
帰り際、神学校を訪ねた(といっても門のところだけだが)記念にと、聖母子像と大天使ミカエルのイコン(紙)を戴いた。これを持っていると、良い事があるのだそうだ。
友人の同僚で、日本のアイヌ民族に興味を持っている人がいるという。会って少し話をしましょうということになり、待ち合わせてパブに入る。遠い遠い昔、ブルガリア人と日本人は同じ一族だったんだと信じているらしいその人は、蒙古斑のこと、アイヌ、イヌイット、アメリカン・ネイティブのことなど話題が多岐に渡っていて、他民族の習慣や言葉にも興味を示してくる。
アイヌ民族は狩猟をし、動物の肉や骨、毛皮を生活に役立てていた。それらの動物は全て「神様」で、肉や毛皮と言った「お土産」を持って人間の世界に遊びに来る。「人間に捕まる」のではなく「人間のいるところへ遊びにやって来る」のだ。だから人間は、神様から戴いたものを無駄にせず大事に使い、最後には頭蓋骨に飾り付けをし、お供え物をして「魂送り」をする。「またお土産を沢山持って遊びに来てくださいね」と、こちらからもお土産(お供え物)を差し上げてお見送りするのだ。有名な儀式では熊送り(イオマンテ)がそれである。
日本語だと数分の会話で済むところだが、英語となると大変である。それでも、熊送りの話や北海道に残る地名の話、ポーランドの大学に残っている古いアイヌ語の録音資料のことなどを話し、英語で書かれているアイヌ語のサイトをあとで連絡します、と約束して別れた。
プロヴディフ最後の夜、ベセロ・セロ(愉快な村)というレストランへ行った。ホール中央にパフォーマンスのスペースが取ってあり、我々が着いたときは女性二人がブルガリアンヴォイスで歌っている最中だ。ここでは音楽学校の学生達がアルバイトでパフォーマンスをしているという。友人が予約をしておいてくれたので、正面一番前の良い席である。この店に電話するときはいつも、「イポンカ(日本人)よ!」と名乗って予約するのだそうだ。普通に名前を言っても日本語名は分かってもらい難く、代わりに、「日本人」と言って予約するほうが手っ取り早いらしい。
そのうち、太鼓やトランペットなどを持った男性グループが現れ、華やかな衣装に着替えた女性が音楽に合わせて次々と踊りを披露していく。フラメンコ風あり、コサックダンス風あり、ベリーダンス風あり。楽器を持った男性が客席を回って、ダンサーの踊りを真似してみろという身振りをする。あの真似はちょっと、、、でもせっかくテーブルに来てくれたのだし、何かしなくては。で、セクシーなダンスを勘弁してもらう代わりに、彼の持っているトランペットをちょっとだけ吹かせてもらうことにする。学校のブラスバンドが使っているトランペットはピストン式バルブが普通だが、借りたのはロータリー式バルブ、これは珍しい。そのうちブルガリアの踊りだというステップが始まると、パフォーマー達が客席から次々とお客を引っ張り出し、一列に手をつないだまま足捌きの指導を始める。これは簡単なステップなのですぐに覚えられる。手をつないだ列がやがて大きな輪になり、店内を一周するくらいに延びるとテーブルの間を縫うように進んでいく。誰でも受け入れて踊らせてくれる、そんな楽しい演出だ。
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第9回
ホテルをチェックアウトし、アフトガーラまでタクシーで行く。目的地に着くと、運転手はメーターよりも少ない金額しか取らない。不思議に思ったが「どうして?」と訊ねる語学力がないので、多めと思われるお釣りを受け取って降りる。ここで落ち合った友人に話したところ、プロヴディフのタクシー会社のうち、呼び出すと20%ディスカウントしてくれる会社があるのだそうだ。ホテルで呼んでもらったのはそのタクシーだったに違いない。日本だと配車料金が上乗せになるのに逆だなんて、面白いサービスだ。
前もって友人がバスの時刻を調べておいてくれたのだが、乗ろうと予定していたバスがなくなっていた。急遽、経由地を変えてエタルへ向かうことにする。しかし、経由地での待ち時間が結構長くなり、目的地への到着が少々遅くなることに。バス・ダイヤは頻繁に変わるらしいので文句を言っても始まらない。経由地スタラ・ザゴラのアフトガーラで荷物を預かってもらい、早めのランチタイムとする。ガブロヴォ行きのバスの中には子犬連れの女性がいる。「ケージに入れておかなくてはだめ」などといったお堅い話はないようで、鳴き続ける子犬をずっとあやすように抱いている。周りの乗客も子犬がいることで和んでいる様子。そのうち子犬はおとなしく眠ってしまった。
エタル野外博物館所有のかわいらしいホテルへまずチェックインし、荷物を部屋に入れる。木をふんだんに使った山小屋風のインテリアだ。屋外博物館が古い家並みを再現しているので、雰囲気を合わせているのだろう。カラフルな色使いのカーペットが廊下中央に敷いてあるのでスーツケースの車輪が上手く転がらないのはつらい。宿泊費には朝食代が含まれているが、翌朝の出発が早くてホテルで朝食は摂れないので、代わりに何か用意してくれるようフロントにお願いする。渡されたのは袋入りのミニクロワッサン(いちごジャム味、チョコレート味)とミネラルウォーターだ。シンプルとみるか大雑把とみるか、食べられれば幸せと思うか。とにかく、翌日の朝食は確保した。
屋外博物館へと向かう。銀細工の店、楽器の店、焼き物の店、帽子屋さんなど職人さん達が作業中である。どこに行っても、職人さんの仕事を眺めるのは楽しく飽きないものだ。お店には細々としたかわいらしいものが沢山あって、つい買いたくなる。まず銀細工の指輪を。楽器店では小さなドーナツ状の笛を。この笛には名前を焼き付けてくれた。焼き物の店では小皿を。ハーブ屋さんでは「ストレスに効果のあるものを下さい!」とお願いし、エッセンスを一瓶買うことに。これは会社に常備しよう。
途中、トルコ・コーヒーを飲ませてくれるお店で休憩。1階がお菓子屋さん、2階が喫茶室になっている。お菓子はあくまで甘く、コーヒーはドロドロだ。粉が沈んだところでそっと上澄みを飲む。路地風の狭い道の両側に同じような色合いのお店が連なっている様は、飛騨高山を連想させる。
買ったばかりの笛をペンダントのように首から下げて、時々口に当てては街並みをそぞろ歩きながら音を出す練習をするのだが、なかなか鳴ってくれない。夕べのトランペットは楽勝だったのになあ。唇を口笛を吹くような形にして勢いよく息を出すのだと教えられたが、「スカー・・・」としか音が出ない。楽器職人さんは「ピィーーッ」と澄んだ音色を聞かせてくれた。その音が目標だ。
写真を撮っていると、向こうから地元の少年達3人が寄って来て、「こんにちは」と日本語で挨拶する。一人が、「僕が写してあげるよ」と言ってくれるのでカメラを渡し、他の子供達には一緒に納まってもらう。それぞれ交互にカメラを操作し、自分達が写っていることを画面で確認すると、満足そうに戻っていった。別にプリントを欲しがるわけでもなく、ただカメラをいじってみたかったらしい。地元の子供は、入場料など払わず柵の隙間から入ってきて遊んでいくのだそうだ。
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第10回
同行の友人と楽器職人さんは知り合いだ。屋外博物館からさらに山を登ったところにあるというソコルスキ修道院へ、仕事が終わった後に連れて行ってくれることになった。一度家に戻ってから車でホテルまで迎えに来てくれると言う。有難くお言葉に甘えることにする。日が傾いて涼しさが増してくる中、さらに山を上がることになるので用心の為ありったけ着込んでから表へ出る。閉館後1時間ほどしてやってきた車には、職人さんのお母様と甥子さんも一緒。お母様は以前修道院で働いていたことがあるそうで、久しぶりに行ってみたいといって同乗してきた。甥子さんは3歳くらいのかわいらしい坊やだ。
夕方の修道院には親子連れが一組いるだけ。ここに逃げ込んだ人達の首をトルコ人が刎ねて崖下に捨てたとか、捕まることを恐れて洞窟の中に隠れ住んだ人がいたとか、トルコ治世下での陰惨な逸話が残っている場所だが、観光地というよりも今だ信仰の場所なのだろう、塀の外には駐車場の代りに広々とした原っぱがあるだけだ。バスは週末のみの運行だそうだから、土地の人しか来られない。
中庭に給水設備があり、屋根付円柱の周囲8箇所から水が出ている。古い時代に作られたものでありながら全部の吐露口から均等に水が出ているのは凄いことで、、当時としてはかなり高度な技術が用いられたに違いないという。同行の坊やはそんなことにはお構いなし、水を浴びてびしょぬれになっている。 原っぱの向こうには、地面を掘り返した跡があるそうだ。最近のマフィアは金属探知機を使って遺跡を掘り返すのだ。目的は副葬品の金製品で、高く売り飛ばすのだとか。この修道院近くも最近荒らされたのだが、雨の日だったので物音が届かず、誰も気付かなかった。下手に気がついて危ない目にあうよりは良かったのかもしれない。
夕食時、ホテルのレストランにお客は私たち2人だけ。貸切状態だ。ここも木をたっぷりと使った温かみのある内装で、照明はやや暗め。赤を基調として白や黒,黄のアクセントラインを入れたテーブルクロスが掛かっている。これと同じクロスを使っているお店は多い。ブルガリア、といったらこのクロスなのだろうか。パンを注文すると、直径25センチはあるだろうという大きくて素朴なパンが出てきた。とても食べ切れる量ではない。二人で1つにしておいて良かった。半分残ったので、翌日の食料にとバッグへしまう。食後に頼んだお茶を飲んでいると、友人が砂糖壷のスプーンを取り上げ、「やっぱりね」と笑う。今日バスで到着したガブロヴォは「けち」「ユーモア」で有名な街だそうで、お砂糖をたくさん使えないようにとスプーンに穴が開けてある。一さじ掬ってすぐにカップへ入れないと、お砂糖はサラサラと砂時計のように落ちていってしまう。「これが有名な“ガブロヴォのスプーン”ね」と友人が店員に話しかけると、「そうですよ、どうぞ」といってプレゼントしてくれた。
今日の部屋はバスタブなし、シャワーのみだ。バスルームでシャワーコーナーと洗面台側を隔てるものは、5センチ位の高さの敷居もどきとシャワーカーテンだけ。うまく使えなくて、浴び終わった時バスルームを水浸しにしてしまった。敷居もどきを挟んで両側に排水溝があるので、水がはねるのは想定内なのか。敷居もどきの下に小さなトンネルが作ってあるので、そのトンネルに向けて、シャワーとは反対側に溜まってしまった水を押し返す。ホテルの室内履きには、スリッパではなくてビーチサンダルを用意しておくほうが便利かもしれないな、と思う。
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第11回
7日目 ヴェリコ・タルノヴォ、ガブロヴォ、プレヴェン (1)
早朝のアフトガーラ建物内で座っていると、中年女性が私達の前に立った。「お金をくれ」と言っているらしい。友人は突然、ブルガリア語を全く解しない日本人のフリを始める。私は本当にわからないので、全身にハテナ・マークを装う。諦めて立ち去る姿は普通の女性だ。清潔な服装をしていて、物乞いをするようには見えない。次々と声をかけて回っているところを見ると、本当にお金が欲しいらしい。「生活に困っているのではなくて、楽してお金を手に入れようとする人がいるのよ」と友人が言う。「庭の花でも野菜でも、何かを売ってお金を得ようと努力する人からは買ってあげるんだけど。」
先にプレヴェンへ向かう友人を見送り、夕方まで単独行動をとる。さすがに7日目ともなると度胸がついてきた。出発前に覚えた「ありがとう−ブラゴダリャ」「さようなら−ドゥヴィジダネ」よりも、「メルシー」「チャオチャオ」のほうが一般的に使われていることに気がつく。テキストで覚えたのは「恐れ入ります、ごきげんよう」のご挨拶レベルだったのかもしれない。もしかしたら気取り過ぎ?まあ、間違いでないなら良しとしてもらおう。
ガブロヴォからヴェリコ・タルノヴォまでのバスは、定員20名程度のミニバスだった。もうそろそろ目的地到着か、というところで路肩に車を寄せて停止。何かと思って外を見ると、警察ではない?でもパトロール?のような車と係員らしき人が2名いて、なにやら書類をはさんで話し合っている。スピード違反だったら警察の車のはずだし、と思って後で友人に状況を話したところ、「ナンバープレートが古かったので、止められたんでしょう」という答え。2007年のEU加盟に向けて、ナンバープレートをEUバージョンに変更するよう大分前から呼びかけているのだけれど、交換していない車がたくさんあるのでしかるべき機関がチェックしているらしい。
アフトガーラ前に止っているタクシーの運転手に「ツァレヴェッツまで乗せてくれる?」とたずねると、ちょっと躊躇してから「どうぞ」という身振り。英語は話せないというのでここから先、ほとんど身振りでのコミュニケーションだ。友人が途中まで同乗するからその人が戻ってくるまで少し待ってくれといい、「日本人か。サッカーでブルガリアと日本は戦うんだぞ。もうすぐワールドカップだね。」とまあ、こんな話(と思われる)をする。しばらくすると、女性が大きな箱を抱えてやってきた。その人を乗せて出発。街中で彼女とトランクの荷物を降ろして一時停止すること数分、この待ち時間の分も私が払うのか...まあ0.2レバ程度だからいいか。ふと思いついてロシア語(もちろん片言)で話しかけてみる。「彼女?奥さん?」「いや、知り合い」ふうん。と、突然犬が飛び出す。「わっっ犬だ!」「ああ、ブルガリアは犬がたくさんいるんだよ」目的地に付くとレシートの裏に電話番号と車の番号を書き、「アフトガーラに戻るときには僕の車を呼んでね」としっかり営業。言葉はお互いたどたどしくても、こんなときには何とかなるものだ。
目の前に迫る丘と石造りの城跡を眺めつつ、どんどん進む。ゆるやかな上り坂だ。お天気がよく、あまり人がいないので気持ちが緩む。次第に汗ばんできて、ブルガリアへ来てこの日初めて半袖になる。ときどき振り返ると、眼下に街並が見渡せる。丘を上った分だけ景色が良くなり、遺跡好きとしてはうれしい場所だ。上れるところは上り、覗けるとことは覗く。城壁の一番奥までいき、そのまま草ボウボウの道をたどって大回りしようと歩きはじめると、風もないのに草むらがカサコソと動く。またしばらくするとカサコソカサコソ。ふと目をやると、小さなトカゲもどきがいる。実は爬虫類が苦手である。5度目のカサコソを聞いて、引き返した。蛇でも出てきたらどうしよう、これだけは勘弁していただきたい。
この丘をライトアップする夜があるという。そのための機材があちらこちらにセットされているが、この機材が遺跡の景観を損ねているように思えてならない。観光資源なのだから仕方ないとしても、遺跡の邪魔にならないような設置方法を考えて欲しい。城壁からいきなり鉄材が突き出していたりするとがっかりさせられる。
丘の上からは、別の丘、その間を流れる川、古い町並、草原に放牧中の牛など、起伏に富んだ地形の間に展開する絵のような景色が眺められる。鉄道模型のジオラマなどでこのままを作ったら、「こんな綺麗なところ実際にはないよ」と笑われてしまいそうな、でも現実の世界だ。琴欧州の家はどの方角なんだろう。
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第12回
7日目 ヴェリコ・タルノヴォ、ガブロヴォ、プレヴェン (2)
13時のバスでガブロヴォに戻り、14時15分のバスでプレヴェンへ向かう予定でいたが、ヴェリコ・タルノヴォのアフトガーラでチケットを買ってみると13:30となっている。「あの〜13時のチケットが欲しいんですけど」「そのバスは××曜日と××曜日。次のバスはこれよ」××は聞き取れないが、どちらもピーの音だ。よくよく時刻表を見てみれば、「п+п」との表記が。これはパニジェルニク(月曜日)とペターク(金曜日)の曜日限定という意味だったのか。知らなかった。こうなると、ガブロヴォでの接続が怪しくなってくる。とりあえず出発まで30分のロスタイム(余裕?)が発生したので、昨日から確保しておいた食料を広げ、日向のベンチでランチタイムとする。パンの食べかすは鳥の餌になるので盛大にばらまく。何気なくバスの行き先表示を読んでいると、「プレヴェン」とある。もしや、ガブロヴォを経由しなくても直行できるのでは!と思いついて時刻表のある建屋に戻ってみるが、早朝の一便しかないらしい。諦めて日向ぼっこに戻る。
じっとしているのには少々飽きたので小さいアフトガーラの中を回ってみると、売店で売っているバーニッツァが目に入った。チーズパンのような、チーズパイのような、とにかく軽食の一種だろう、おなかは空いていないけれど目が食べたがっている。そういえばブルガリアに来てまだバーニッツァを食べていない。早速ひとつ買うことにする。が、売店のおじいさんは頼んだバーニッツァを手に取ると奥へ引っ込んでしまう。なにか別の用事でも思い出したのかな、と思ったらそうではなくて、電子レンジで軽く暖めてくれている。長い部分が30センチくらいあるぞうり型の暖かいバーニッツァが0.45レバ。おいしい。子供時代の買い食い気分だ。食べながらバスの乗車位置に戻ると、発車まではまだ時間があるものの車が止っている。ソフィアでの教訓を生かし、さっさと乗り込んで席を確保する。バーニッツァを食べ終わらないうちにバスは出発した。
もしかしたら14時15分のプレヴェン行きに間に合うかも、という期待も虚しく、バスは14時20分にガブロヴォ到着。次のプレヴェン行きは15時50分だという。ここで騒いでも仕方が無いのでおとなしくチケットを買い、空いた時間を観光に充てることにする。目指したのはユーモアの家。ほのぼのとした笑いを誘うもの、思わすにやりとさせるブラックユーモア、世相への風刺が利いたのものなど、さまざまな笑いの元を展示してある。昨日レストランで見た穴開きスプーンのほかにも、嫌な客が来た時用の、縁がギザギザになっている飲みにくそうなコーヒーカップ、どうせ一緒に使うのだからと最初からくっついているコーヒーカップとソーサー、すりきり一杯のお砂糖しか出せないよう出し入れ口を細工してある砂糖壷などもある。ゆっくり見て回るとかなりの時間がかかりそうだ。展示室の一部は絵の架け替え作業中だ。日本の美術館・博物館で展示の入れ替え作業など見るチャンスはない。これも貴重な観光のひとつとなる。
イゴト橋の近くに、ここが町になるきっかけとなった鍛冶屋・ラッチョ・コバチャの銅像がある。あるとき銅像を建てることになったのだが、どこに建てるのか、という話になったときに誰も土地を提供しようとしなかったので、しかたなく川の中にある岩山に建てたのだとか。これはガブロヴォ人の「ケチ」を表すエピソードのひとつなのだそうだ。幸い、ケチなガブロヴォ人には遭遇しなかった。
バスは定刻にガブロヴォを出発。お天気の良い午後、窓際で明るいドナウ平原の景色を楽しみながら過ごす。風景を写真に撮りたいと思いカメラを構えると、手前に木立が現れたりガードレールが邪魔をしたりとチャンスがやってこない。で、カメラをしまうといい構図が現れる。「他人の芝生は青い」ではないが、反対側の景色のほうが良く思えたりもする。カメラを出したりしまったり、あちらこちらきょろきょろしているうちにプレヴェンのアフトガーラに到着。ここは数日前、友人の同僚が携帯電話を掏られたところだ。荷物に用心しつつタクシーを探す。アフトガーラのすぐ前に並んでいるタクシーの料金を確認すると、初乗り料金が0.9レバと高い。プロヴディフの倍近くだ。日本円に換算すれば70円程度の額だが、払わないで済むなら払いたくない。お財布感覚が現地仕様になってきている。「乗れ」という合図を無視し、少し離れたところに停まっている別のタクシーをみると、納得のいく価格表だったので乗せてもらうことにする。どのタクシーもきちんと価格表を貼ってあり、金額が異なるのは違法行為ではない。「この金額で営業しています。よろしければどうぞ。」という訳だ。タクシー会社に所属している車と個人タクシーとでは車や保険などの経費負担が異なるので、初乗りや一キロ走行当たりの料金が違うのだそうだ。もうひとつ日本と違う点は、並んで待っているタクシーだからといって先頭の車から順に乗らなくてはいけないということはなく、どれでも気に入った車に乗って構わないのだ。
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第13回
7日目 ヴェリコ・タルノヴォ、ガブロヴォ、プレヴェン (3)
友人と落ち合う約束をしていた博物館に着いたのは6時半頃。元は陸軍の錬兵場だったという立派な建物だ。博物館は5時で閉館だが、友人が企画側の立場にいて博物館員にも話が通っており、門、建物入口、階段、廊下、次々と人が出迎えてくれて、無事、展示室にいる友人と会うことができた。身元を確認するもなにも、訪ねてくる日本人などいないのだろう、東洋人の外見がそのまま身分証明書のようなものだ。「○○(私の名前)でしょ、あなたを待っていたのよ。さあこちらへ!」そういえば、入館料を払っていない。そもそもどこでチケットを売っていたのだろう・・・予定通りに到着しなかったので、「道に迷ったらしい」という話になっていたようだが、乗るはずだったバスが無かったので2時間以上遅れたと話すと、驚くでもなく皆納得してくれる。やはりバス絡みの時間のずれは当たり前のことなのか。
この博物館では、企画展示として日本人形を通しての日本文化紹介を行っている。雛人形、五月人形、そのほか木目込人形や博多人形、羽子板なども飾られており、華やかな一角だ。ブルガリアでは、人形は抱いて遊ぶもの、いつかぼろぼろになって捨てられてしまうものだそうだが、ここに展示された日本人形たちは飾って鑑賞するものだ。そして、それぞれに飾る意味合いがある。そういった解説がブルガリア語で掲示されている。五月人形のところにはレプリカの柏餅が飾ってあり、ブルガリアの人にはこれがサルミ(ぶどうの葉やキャベツでひき肉を巻いた料理)に見えるらしい。葉っぱはラッピングペーパー代わり、甘く煮てペースト上にした豆を、米を搗いて粘りをだしたものでくるんだお菓子、と言ってもまったくイメージが湧かないようだ。なにより、「豆を甘く煮る」ことが不思議だという。
当初、友人とどこかで夕飯を食べて夜の街を散歩しようと話していたのだが、その場の流れで、館長、学芸員と一緒に食事をすることになる。何軒かレストランを覗いて、4軒目に決定。立派なシャンデリアのあるレストランだ。まずラキアとサラダを取り、飲みながらメインディッシュを選ぶ。食事の際のお酒は、まずラキア、次にワイン、人によってはさらにビール、そして振り出しのラキアに戻ることもあるという。「普通は軽いアルコールから強いものへ移っていくらしいけれど、ブルガリアの飲み方は逆なのよ」と説明してくれる。ラキアは各家庭でも作るらしい。日本で言うなら梅酒のようなものか。
翌日はどうするの、と聞かれたので、街を見てからソフィアへ移動するのだと答えると、「明日は、博物館の中を案内するから是非来てね。そうそう、うちで作ったブドウのラキアがあるの。明日持ってくるから日本へのお土産にして頂戴。それから、丘の上にあるパノラマを見ていらっしゃい。」と勧めてくれる。パノラマってなんだろう、360度見渡せる展望台みたいなものかと想像する。
レストランは満席になることなく、20以上あるテーブルのうち客がいるのは5テーブルほど。そのせいか、暗くなっても中央のシャンデリアには電気が入らない。壁面のライトだけだ。電気代が高いとは聞いているが、営業時間内で店内に客がいても明かりを全部点さないのは当たり前のことなのか。食事中、2人ほど花売り娘ならぬ花売りおばさん(おばあちゃん?)がやって来る。各テーブル(といっても5テーブルだが)を回ってお花を勧める。お店の営業とは関係の無いこういった人が入ってくるのが、日本人の私には珍しい。
泊まったのは、社会主義時代に士官クラブだったという建物。今は宿泊施設の他、地域のコミュニティーセンター的な機能を持っているようだ。室内は天井が高く、ベッド、ソファ、テーブルを置いてもまだまだ空間がたっぷりある。バスルームもタタミ8畳分くらい有りそうな広々としたスペースだ。この施設もそうだが、街にある大きなビルやモニュメントを見るたび、社会主義の頃の建造物にはお金に糸目をつけていなかったのだろうな、という印象を受ける。ところで、市民生活はどうなのだろうか。食生活は充実しているように見受けられるが、高い電気代、今年1月から倍近くに値上がりした郵便料金、平日の昼間に地元の郵便局で支払わなくてはならない公共料金、舗装の剥がれた道路や穴だらけの歩道など、公共の面は、充実しているとは言い難い。もちろん、コンビニエンスストアが林立している現在の日本と引き比べるのはナンセンスだが、国の力で巨大かつゴージャスなものを作り上げた一方で人々が本当に必要としていた「何か」を犠牲にしてきたのではないか、という気がしてならない。
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第14回
チェックアウトはお昼でOKということなので、荷物をそのままにして出掛ける。まず、昨日学芸員に勧められた「パノラマ」という所へタクシーで向かう。一体どんなところなんだろう。車はどんどん坂を登っていき、登りきった丘の上に、炊飯ジャーのような、ひっくり返したバケツのような、塔と呼ぶには低いような、上が少し窄まった円筒形の建造物が建っている。中へ入ると英語を話す係員が案内してくれた。どうやら、戦争記念館のようだ。まず、6枚の大きな絵の前をゆっくり進みながら、1枚1枚説明を受ける。それぞれが独立に至る重要な場面を描いてある絵だそうだ。トルコ軍と戦うブルガリアをロシア兵が助けに来てくれたという係員の話は「独立」戦争のように聞こえたが、実際にはロシアとトルコの戦争で、ロシアが勝ったからブルガリアは開放されたということらしい。この辺りは不勉強なので確かなことはわからないが、トルコを追い払ってくれたロシアに感謝していることは伝わってくる。
階段を上がると円形フロアの中央に出る。なんと、フロアの周囲はドーナツ状に文字通り「パノラマ」になっている。この建物が建っている丘がまさに戦場だったのだ。そして、ここで実際にあった戦闘風景を、絵、模型、照明で作り出しているのだ。武器などの一部は模型ではなく「本物」を置いているという。この丘から見渡せる地形風景がそのまま壁面にぐるりと描かれている。手前のほうには、塹壕や倒れた兵士、行軍のために使われた荷車などがレイアウトされていて、何処までがジオラマで何処からが絵なのか、境目が全くわからない。自然に見える地面も作り物だと聞いて、その技術に驚くと同時に、独立という歴史を重く捉えている事実を目の当たりにしたような気がした。
建物の外に立って周囲を見渡せばパノラマで見た地形がわかるし堡塁や大砲も残っていると聞いたので、早速表へ出てみる。確かに丘の上だけあってぐるりと見通しが利く。これならどの方角から軍勢がやってくるのか、どの辺りに火の手があがっているのか良くわかったに違いない。また、よじ登るには少々苦労する角度の、高さ3メートルほどの堡塁がある。砲台としても使われていたらしく、大砲が屋外展示されている。堡塁の上を一応端から端まで歩いてみる。上ったのと反対側の面は、さらに深く掘られている。
さて、降りる段になって考えた。だいたい、同じ坂だったら登りよりも下りのほうが大変なものだ。おまけに「上り下りする道」などない。うれしがって上ってはみたものの、さてどうやって降りようか。ゆっくり踏みしめながら降りるような坂ではないから、一気に走り降りることにしよう。草に足をとられないよう、コースを見定めてダッシュ!
パノラマからは下り坂なので、ゆっくり歩いて市内へ戻ることにする。丘の上から市内へ向かう斜面は全体が公園になっていて、パノラマを背にしばらく歩くと、木立の中の小さな慰霊堂に行き当たる。ここは、この丘の戦闘で亡くなったロシア兵を慰霊するためのもので、中に入ると中央に人骨のディスプレイがあり、隊の名称を刻んだプレートがたくさん壁中に並んでいる。一体どれだけの人が亡くなったのだろう。
犬を連れて散歩している人が結構いる。どの犬もリードを外してもらって、好き勝手に動き回っている。と、向こうから大きな犬が走ってきた。大きさは、ハスキー犬以上、セントバーナード以下位だ。そんなサイズの犬が笑顔(に見えた)で飛びついてくる。私は犬・猫好きだから平気だが、嫌いな人は「襲われる!」と思うに違いない勢いだ。これも何かの縁、写真に収めたかったが、じゃれ付かれてとても写せない。友人が犬をかまっている間に写せるか、とカメラを構えると、すぐにこちらへ飛んでくる。やがて、小型犬を見つけるとそちらへ走り去っていった。かわいそうに、向こうの方では小型犬が逃げ回っている。
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第15回
さらに丘を下り、公園のゲートを出ると前は幅の広い階段になっていて、途中、社会主義時代の名残と思われるモニュメントがある。そのままさらにまっすぐ下っていくと、昨日タクシーで乗りつけた歴史博物館だ。またまた入館料を払わないまま案内されるまま、昨日の学芸員のオフィスへとたどり着く。「待っていたのよ。パノラマへ行ってきたのね。良かったでしょう?お昼過ぎのバスに乗るんでしょ?じゃ、これから館内をざっと案内するわね。」そして、考古学的なもの、民俗的なもの、独立運動に関するものなどを矢継ぎ早に説明してくれる。この建物は非常に大きくて広く、廊下はひたすらまっすぐ伸びている。廊下に沿って展示室が並んでいるのだが、見学に来ている人が誰もいないことに気づく。電気が点いていないのだ。私達を案内しながら、学芸員が壁際にある配電盤を操作して電気を点けていく。やはり電気代が高いせいなのだろうか。いくら空いていても、日本の博物館は電気つけっぱなしだ。ブルガリアのほうが合理的かもしれない。しかし電気を点けていない間も、薄暗い展示室には持ち場の学芸員が待機している。
別れ際に大きなボトルを渡される。夕べの約束通り、自家製ラキアを持って来てくれたのだ。ほんのちょっと出会っただけなのに、どうしてここまで親切にしてくれるんだろう。
ホテルで荷物をピックアップし、アフトガーラに向かう。ここはプロヴディフの人が携帯電話を掏り取られたところ、気をつけなくては。出発までに少々時間があるので、昼食をとろうと食堂に入る。結構混んでいるけれど、相席させてもらえば大丈夫そうだ。交代で荷物番をすることにし、カウンターの方へメニューを見に向かう。と、私達が入ったのとは別の扉から女性が3人入ってくる。誰かを探している様子だ。
突然店内を走ったかと思うと、私が今向かっているカウンター前にいる女性に殴りかかっていく!えっ何?襲われたほうも女性3人。応戦に入る。友人のいる荷物のあるほうへ引き返し乱闘に注目していると、周囲にいた男性客達が女性同士を引き剥がすものの、その手が緩んだとたん、テーブル上にあるスパイス瓶を鷲掴みにして再び目標へ襲い掛かっていく。飛び蹴りもあり、なんともすさまじい。「どうしよう、ここで食べる?」「どうしようか・・・」そのとき、食事を終えて席を立った男性が、「ここは治安が良くないから気をつけなさい」と声を掛けてくれる。店の外、待合室の一角にスナックコーナーがあり、そこでもバーニッツァや飲み物が買えるので、そちらで食べることにする。
バスに乗る段になっても友人は用心に用心を重ね、バスのトランクルーム(下部)の扉が閉まるまで車外で荷物番をしている。ひどい場合には、発車前のトランクから荷物を抜かれこともあるのだそうだ。車外には人がたくさん立っているが、誰が係りの人で誰が乗客なのか、走り出してみないとわからない。日本では制服や腕章があるから、係員・乗務員・お客の区別をつけ易いのに。発車したときにはほっとした。
ソフィア到着。さすがに新しいだけあって、あちこち回ってきたアフトガーラの中では一番綺麗だ。早速タクシーでホテルに向かう。運転手が荷物をトランクに入れてくれるとき、「ラキアが入っているから気をつけてね」と友人が声を掛ける。「ラキアか。おつまみは何が好き?おすすめはマッシュルームだよ」それからホテルに着くまでの間、おつまみ話が延々と続く。大き目のマッシュルームの軸を外し、そこにバターを少々いれ、オーブンで軽く焼くだけ。これは運転手のお勧めおつまみ。チーズをトッピングするならバター控えめに。日本のお酒はなにがあるのか、原料は何か、日本のお酒に合うおつまみは何か、とも聞いてくる。枝豆に冷奴、お刺身など、友人が一所懸命通訳している。がんばれがんばれ。
ホテルに荷物をおき、すぐに市内見物へと出掛ける。バスで中心部へ向かい、ジェンスキ・パザル内を冷やかして歩く。道に沿って両側に商店が並び、さらにその道の中央に露天商が並んでいる。肉屋さんと目が合い、「店に寄っていけ」と盛んに合図を送ってくる。手旗信号でも送っているような勢いだ。何かと思って行ってみると、「中国人だろ!(断定調)」と言いながら手を差し出してくる。「いえ、日本人です。」「日本人ならもっと良いじゃないか!日本は大好きだ!ブルガリアは好きか?」そして握手。ショーケースの中には、皮を剥いだだけの動物の頭部がいくつか積み上げてある。何の肉だろう、目玉がこちらを向いている。安いから生肉を買って行けと勧めるが、買ったところでどうにも出来ないのでお断りして表へ出る。結局、手を握られただけか。
お店の前に木樽を並べているところがある。ワインの量り売りだ。表示価格は1リットル当り1レバから2レバ。ペットボトルやポリタンクを持って買いに来るのだろうか。たくさん飲む家ならこういう買い方があってもいいなと思う。昔、一升瓶を持って酒屋さんにお醤油やソースを買いに行ったことを思い出す。
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第16回
考古学博物館裏手にある小さな教会を2箇所訪ねる。どちらもオスマントルコ時代に作られた教会らしく、扉を開けると、半階ほど下るように作られている。いまだに信仰の場として機能している教会なので、次々に信者がやってきてはお祈りをしていく。最初に訪ねたところでは、神父様が信者の額に指先を当てて何かつぶやいている。中は天井が低くこじんまりとしているが、電気と白い壁で明るく、近代的な雰囲気だ。表へ出ようとした時、近寄ってきた神父様に何処から来たのかと訊ねられる。日本からの旅行者で明日帰ることを告げると、日本へ帰るなら道中気をつけてと私に十字を切って下さった。2箇所目の教会は、ビルの谷間に取り残されたような空間に立っている。中には、ろうそくなどを売る老婦人が一人。あとはお祈り中の信者が一人。先の教会に比べると古いのだろうか、薄暗い空間だ。入り口から下がる階段の手すり壁にもイコンが並んでいる。ここでもやはり、何処から来たのかと老婦人に聞かれる。同じく、日本から来ましたが明日帰りますと答えると、ここは聖ゲオルギも祀ってある教会で、聖ゲオルギは旅人を守ってくださるの、だからあなたも大丈夫よと言ってれる。本当に、安全な旅が出来そうに思えてくる。
ラキアはブドウから作られたものが一番多いそうだが、友人はいちじくのラキアが美味しいという。強力に勧めるので買うことにする。そう決めてお店に行くと、売り切れていたり置いていなかったり。マーケットと酒屋を数件回り、やっと確保する。昨日戴いたのはブドウのラキアだったから、プラムのラキアもついでに買う。今晩、しっかりと保護してスーツケースにしまおう。
夕食はホテルから10分ほどのところにある店へ食べに行く。いつもようにワイン、スープ、サラダを注文し、メインはお店のお勧めである串焼き肉を頼む。スープは、友人はシュケンベチョルバを、私はタラトールを頼む。臓物系は苦手でモツの煮込みなどは絶対食べられないのだが、味見させてもらったシュケンベチョルバはなぜか大丈夫だった。もちろん、いつまでも噛んでいると苦手な味になってしまうので、残念ながら積極的に注文する一皿ではない。タラトールは冷たいヨーグルトスープで、「ヨーグルト・イコール・デザート」という日本人が持つイメージを良い意味で裏切ってくれる料理だと思う。さて、出てきた肉料理は、「串焼き盛り合わせ」といえばイメージに近いかもしれない。ただし、ひと串が大きい。日本の串は15〜20センチだけれどこちらの串は30センチ近い。豚肉、鶏肉、チーズのベーコン巻きなど、4種類が2本づつ専用の器にハリネズミのように刺さって出てくる。食べ切れるのか?
可愛い飛び入りあり。家族で食事に来ているのだという。お料理がなかなか出てこないので退屈したらしく、店内を歩き回っている。こんなとき、ブルガリアの親達は「お行儀悪い」とか「おとなしくしていなさい」などと注意しないのだろうか。こちらのテーブルに来て、あれこれおしゃべりをしている。もちろん私には何を話しているのか解らない。でも声もしぐさも愛らしく、お願いして1枚写真を写させてもらう。そのうち、「お料理が来たの、じゃあね」と言って戻っていった。
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第17回
今日はいよいよ最終日だ。ヴィトシャ山ろくにあるボヤナ教会と、国立博物館へ行くことにし、午前中に効率よく動くためタクシーを一台調達する。友人が比較的綺麗な数台をチェックして、「ボヤナ教会と国立博物館を回って市内に戻ってきたら、何レバ位かかる?」と質問する。やはり、OKタクシーが一番安いらしい。凡その距離と待ち時間を含めた金額を提示してくる。交渉成立、さっそく乗り込みボヤナ教会へ向かう。
「ブルガリアに来て教会を見て回るのはとても良い事だよ。グッドチョイスだ。どこも綺麗だろ?」と運転手。どうやら真面目なクリスチャンらしい。「日本はお金持ちだよね。ものすごく進んでいる。でも、それは 努力の賜物だということを知っているよ。それに、日本人が贅沢な暮らしをしているわけじゃないということも 知っている。テレビの特集で見たよ。戦争であれほど負けたのに、あっという間に巻き返して先進国になった。すごいことだよ。」淡々と語っている。本当に真面目な人らしい。そんな番組があったんだ。日本でブルガリアを特集したテレビ番組はあっただろうか?旅行番組くらいかも知れない。
閑静な住宅街に入り、坂を上っていく。このあたりは高級住宅街らしい。緑の多い門の前に止る。ボヤナ教会だ。中に入ると、小道の脇に家が建っており、そこが案内所だ。ブルガリアをあちこち見てきたが、入場料を徴収する場所は必ずしもゲートを備えていない。ツァレヴェッツの丘もそうだった。隙をみて走り抜けたらごまかせそうな、とても緩やかな管理だ。もちろん、入場者が少ないからすぐに捕まってしまうだろうけれど、「駅の改札」的な設備がない。ボヤナ教会では、
見張番宜しく猫が脇に座っている。神様の家にごまかして入っても仕方ない、きちんと入場料を払う。
世界一小さいかもしれない世界遺産であるボヤナ教会は、今ユネスコの管理の下で修復作業中だ。建物は2回増築されていて、外壁からその境目がはっきりと判る。内部は入場人数と滞在時間を制限している。人の息でフレスコ画が傷むのを最小限にとどめているのだろう。当然空調も入っている。修復中の壁画からは、当初外壁だった部分が増築によって内壁となったことが判り、また、一部崩れた壁から、もともと外壁だった時代の壁画と、後に内壁となった時に上書きされた壁画の両方が見て取れる。一番奥の部分の側面には最後の晩餐の場面が描かれている。いつまでも見ていたい場所だが、時間制限のため追い出されかける。上のほうを見ると、二等辺三角形の頂点に目が描いてある。フリーメーソンのシンボルに似ているなと思い、係員に質問するが「あれは神様の目よ。」とだけ答えて、フリーメーソンのことは知らない様子。他にもあれこれ細かい質問をして、滞在時間を稼ぐ。
ボヤナ教会から国立博物館への道すがら、「君たち朝ごはんは食べたの?」と運転手に聞かれる。「何か、スナックとかドリンクは欲しくない?」とも聞いてくる。どうやら、自分の朝ごはんを買いたいらしい。博物館に入ったら1時間くらいは待ってもらうことになるからその間に食べてていいよ、と話すと、「じゃ、ちょっと買いに寄らせて」と目的地とは反対方向に曲がって走り出す。といっても数百メートルだが。「ちょっと待ってて」と車を降りていく。この待ち時間も私たちにチャージされるの?と思うまもなく、数十秒で戻ってくる。早い!しかし、「寄る」とか「待たせる」とか当たり前なのかなあ。
博物館の入館料は10レバ。日本円にして700円程度だが、物価の差で考えると7倍の約5000円に該当する。相変わらず、外国人価格は健在だ。門から建物まではかなりの距離がある。上野の国立博物館の倍くらいか。かつては迎賓館だったという建物は空間を贅沢に使っていて、階段も豪華だ。「階段室」といった閉鎖された空間ではない。なんとなく階段、いつのまにか広間だ。2階中央の展示室はもとメインホールだったのか、床の組み木細工、天井のシャンデリアといった内装がすばらしい。一方展示方法はというと、、、正直言ってあまりいただけない。直射日光の当たる展示場所あり、目線よりも高い展示棚あり(子供には絶対見えない)、考古学の発掘現場風景を表すパネルは、写真の継ぎ目が盛大にずれている。他所の博物館でも感じたが、やはりここでも「雑」な印象を受ける。国宝をカタログ通販の棚に飾っているが如しと言ったら言い過ぎか。そうはいっても展示物そのものはすばらしい。いや、すさまじいと言うべきかもしれない。遠い昔にトラキア人達の黄金文化があった。それも、日本のような金箔ではなくて大きな金のカタマリだ。とにかく圧倒される。社会科見学らしき小学生のグループと次々に遭遇する。彼らにとっては、珍しい東洋人も「見学対象」の一部らしい。では、特別展示ということで。
最後の昼食に何を食べようかと相談し、到着日から気になっていたテイクアウトの大きなピザを買うことにする。ひとつ1.2レバ。それでも友人は高いと言う。ホテルの部屋へ持って帰り、ささっと昼食を済ませて荷造りをする。ラキアは厳重にビニール袋でくるみ、さらにタオル、Tシャツ、フリースで重装備させ、隙間にはその他衣類や柔らかいものを詰めて直接スーツケースの内壁に当たらないようにする。これで安心だ。
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第18回
出発ロビーは、日本の地方都市の国内線ロビー規模という印象を受ける。チェックインカウンターはせいぜい10箇所くらいか。出発時刻の2時間前になってもまだボードに表示が出ない。時間通り飛ぶのだろうか?カウンターに向かって左右の壁面上部に、モザイク造りのヨーロッパとブルガリアの大地図がある。こんなところには妙に凝ったしつらえを見せるブルガリアだ。ようやく始まったチェックインを早々に済ませ、出国審査までの時間をティーラウンジで過ごす。出発ロビーの真上あたりに位置しているレストランのさらに上階で、空港全体が良く見渡せる場所だ。自分の乗る飛行機はどれだろうか、ルフトハンザ・マークの機体を探す。コーヒー、紅茶が2.2レバ。またしても友人は「高すぎる!」と不満顔。確かに市内の値段に比べたら高い。ちなみに興味半分で覗いたレストランの価格設定は東京のファストフード店、ファミリーレストランと大して変わらない。ということは、ブルガリア価格としては異常に高額ということになる。遠い昔、まだ1ドルが360円だった頃、「アメリカ人は1ドルを100円玉くらいの感覚で使っているんだよ」と聞かされてとても驚いた覚えがある。「日本ではタクシー初乗りが9レバだよ。」今どこかで、ブルガリアの子供がこんな価格差に驚いているかもしれない。
さて、いよいよ出国審査である。といっても、JRの改札を抜けてその向こうのキオスクまで歩いたら手続き完了、程度の規模である。馬鹿にしているのではなく、あまりにあっさりしているので拍子抜けしたのだ。手荷物検査とパスポートコントロールを過ぎても、縦一直線に動線があって目隠しや仕切りがないので、手続きを終わったのちも見送ってくれている友人と手を振り合うことができる。おまけに、出国審査場が階段の1階踊り場のような位置にあるので、階段を数段づつ上りながらそれぞれの見送りが思い思いにポジションを確保し、手を振っている。十分に名残を惜しんだ後、さて空港内側である。おみやげ物屋が1店、免税店が1店、お酒を扱うカウンターが1店、あとは軽食を売るカウンターが2箇所ほど。あっさりしたものだ。出発予定時刻になってようやっと出発案内が表示される。30分ほど遅れている。空港の建物からはバスで駐機スポットへ行き、そこからタラップを上がる。今どきタラップを使う機会はそうないので思わず写真を撮ると、すかさず係員が飛んできて注意された。この空港は軍用も兼ねているのか?
機内はガラガラであっという間に搭乗完了し、離陸だ。視界は良好、飛行機はぐんぐん高度を上げていくが景色は窓から離れていかない。今度来るときはもっと大きいスーツケースで来よう。必ずまたいつか来よう。待っててね。
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第19回(最終回)
白アスパラガスの時期である。何度かドイツを旅行している同僚から、「それはそれは美味しい」と聞かされていた白アスパラガスを食べようと日本出発前から決めていた。ブルガリアに向かうトランジットの時に、レストランのメニューと金額を確認しておいた。「なんだ、お手ごろ価格じゃない」そのときは思った。でも、価格帯の全く違う国で一週間近くを過ごしてきた身にとって、帰りに目にする金額はべらぼうに高い。ちなみに、白アスパラガスのスープが6ユーロ。12レバだ。白アスパラガスのサラダは11.5ユーロ。23レバだ。「スープとサラダ」と考えるならば、10倍というところか。それでも、たっぷりあるトランジットの時間を過すためにもレストランで食事をしたい。意を決して店内に入る。
「お好きな席にどうぞ」といわれ、迷わず窓辺に座る。「メニューをどうぞマダーム。」「ご注文はお決まりですか、マダーム?」「お持ちしました、マダーム。」とマダーム扱いされ、すっかり良い気分である。ゆっくりゆっくり味わう。確かに美味しい。スープはまったりとしたポタージュ仕立て、サラダは、グリルされた白アスパラガスがたっぷりのルッコラと一緒にお皿の上に載っている。プチトマトや大きめの角切りバゲットも載っていてボリュームたっぷりだ。どちらも好みの味付け、期待が大きかった分、喜びも大きい。
さて、離陸していく飛行機を眺めながら優雅に食事を摂ったあと、お会計の段である。「合計金額に税金は含まれておりますが、チップは含まれておりません、マダーム。」そうだった。チップの必要な国にいるのだった。ええと、チップは食事の10%から15%だったっけ。まずは20ユーロ札を出す。そこへおつりが2.5ユーロ置かれる。ブルガリアを知らない頃だったら「おつりはいりません」と太っ腹(?)を気取るところだが、今はどうしてもそれが出来ない。0.5ユーロ硬貨をお財布にしまい、2ユーロを残す。「ありがとうございます、マダーム。」ちょっと笑われた気がした。それでも、4レバのチップだ。ブルガリアの気取らない店なら一食分だ。
しばらくは金銭感覚のリハビリが必要になりそう・・・はぁ・・・